連載「宗教の基礎ー部落解放論とかかわって」(第4回)(1983年8月『紀要・部落問題論究』第8号)


宮崎潤二さんの作品「神戸川崎造船東浜岸壁より」




       宗教の基礎ー部落解放論とかかわって


              (第4回)


         1983年 「紀要・部落問題論究」


    (前回の続き)


            三、宗教の基礎(そのⅡ)


         「天上の問題・地上の問題」の把え方


 つぎに、宗教の基礎の理解との関連で、一般に誤解の多い「天上の問題・地上の問題」についてふれておかねばならない。この問題は、宗教の把え方とかかわって難問のひとつである。


 普通「天上の問題」は宗教の問題で「地上の問題」は現実の問題というような、二元論的見方がなされる。「聖」なる天上のコトと「俗」なる地上のコトと二分する見方である。


 しかし、さきに「宗教の基礎」(そのI)でみたように、「宗教」は重要な「地上の現実のコト」であって、しかも「基礎」(いわば本稿のこれが「天上のコト」である)に裏打ちされて、はじめて宗教が宗教として成り立ちうる消息を述べたのであった。


 宗教を、現実(「この世」)のことと無関係な「あの世」のこと、超歴史的な観念の世界、その意味でたんなる「宗教的世界」として考えることは、宗教にたいする誤解からきているのである。


 もちろん、この誤解にはけっして理由がないのではない。宗教はこれまでほとんどの場合、そのようにみられてきたし、表面的にみればたしかに、「世俗」から逃れて「聖」なる世界へ出家し修業することによって、宗教固有のかたちをとるようにみえるからである。


 そして、そうした誤解から「地上の問題」は世俗のこととして一段下にみて、鼻持ちならぬ宗教の独善もおこったりするのである。


 しかしながら、宗教を含む地上のすべてのことは、あくまでこの世の人間のことである。この地上・現実のほかの、遠い彼方に「天上のこと」かあるのではない。


 もともと、「天地一枚」「仏凡一体」「神人共在」こそ現実の真実相なのである。宗教は、もっぱらこの事実を見極め、地上の生をこそ大切にみるものでなければならないのである。


 いいかえれば、宗教は万人のあたり前の日常生活のなかにこそ生きづくものであって、なにか日常性と異なる特別の場所や形式を求めることが第一義的関心事ではないであろう(注29)。


 さて、右の「天上の問題・地上の問題」の解き方に関連して明らかにしておかねばならない点かある。それは、宗教もしくは広義の精神的創造活動の成り立ちと、物質的な生産労働活動の成り立ちとの区別と関係についてである。


 従来この点についても、両側面はたんにバラバラにか、それともいずれか一方を「基礎」とみなすかで、この難問を解こうとしてきたのである。


 ここではこの問題に深く立ち入ることはできないが、「宗教の基礎」をたずねてきた関連でいえば、その「基礎」は、物質的生産労働活動の「基礎」と同じであって、この「基礎」を介して独自に成立してくるのが、このふたつの両側面であるのである。基礎を介して区別され、相互に関係(影響)しあうものである。


 部落問題の解決の上でも、この精神・物質両側面が正常なかたちで成り立つことが不可欠であることはいうまでもない。
物質面の諸条件は精神面に甚大な影響を及ぼし、逆に精神面(住民の意識)は物質的諸条件を整える上で大きな力を発揮する。


 住民の自治・自立意識の形成に果す宗教の役割について前にふれたけれども、今後いっそうこうした側面〔広義の宗教・倫理・教育・文化〕が、独自な検討課題として取りくまれるにちがいない。


 現代に生きる人間にとって、たんなる前近代的な「宗教性」は清算されるべきであるけれども、本来の「基礎」から促され成立してくる精神的創造活動=これを「非宗教的宗教性」とよぶこともできる=に注目することは、予想以上に重要なこととおもわれる。


 そしてこのことはまた、新しい視点からの個人・家族・共同体の成立にかかわる、批判的考察をすすめるための基礎視座を見出す上でも、欠かせない研究課題である。とりわけ、部落問題とかかわって「国家と宗教」の問題も歴史的・理論的に検討されねばならない課題である(注30)。



        2 「平等」論の吟味


 少々抽象的にすぎる問題にこだわりすぎたけれども、最後に一点、「宗教の基礎」にかかわる「平等」について考えをすすめておきたいとおもう。


 たとえば、さきにも引用した藤谷氏のつぎのような表現がある。
 《宗教において神や仏のまえにおける平等を説くのは、信仰の世界における平等無差別であり、それは精神的、観念的なものである。(中略)むしろ、現実世界における破りがたい不平等や差別の壁の存在のゆえに、信仰の世界に解脱、救済を求めたものである》(注31)


 これに類した表現は、「宗教と部落問題」が論じられる場合けっして例外的ではないけれども、この小論で「宗教の基礎」をたずねてきて、とくに強調しておかねばならないことは、人間の平等性は、たんなる人間の願望や理念ではなく、万人の絶対平等の事実性に基礎づけられたものだということである。


 「宗教の基礎」とよぶその「基礎」には、すでに絶対にはじめからすべての人が平等であるのである。絶対に平等であるからこそ、「破りがたい不平等や差別の存在」に抗して、平等への願望や理念も根拠をもって主張することができるのである。


 したがって、「信仰の世界における平等無差別であり、それは精神的、観念的なものである」といわれる「精神的、観念的平等無差別」は、けっして消極的
なそれではなく、積極的な基点(出発点)を意味する。この、いわば第一義的平等性とでもいうべき「基礎」の促がしが、現実の不平等の撤廃に取りくむ共通の力ともなるのである。


 藤谷氏は、この同じ個所で、信仰の世界の平等無差別から、ただちに差別撤廃の社会運動や政治運動を導き出すことのできないことを注意する。また別の個所でも、「宗教の領域」と「社会科学の対象とすべき領域」の区別を強調し、「一定の宗教信仰から一定の政治理論や社会理論が導き出されることは、きわめて危険である」(注32)「その意味で宗教はけっしてオールマイティではない。宗教は個人の心の問題に答えるものである」(注33)ことを強調する。


 たしかにこの注意は、本稿でも理論と実践の、また精神と物質の区別と関係にふれたところの問題意識と関連する。しかし、藤谷氏の所論には、本稿でいう宗教の基礎を介した区別と関係が明晰でないためか、この問題の解き方として、私には十分に説得的でないようにおもわれる。


 このように、絶対平等の基礎がすべてのものに最初から据えられている事実性を共通の出発点とするとき、現代の部落解放理論として受け入れられている「国民的融合論」の確かな基礎をあらためて確認することになる。


 この基礎=第一義的平等性=においては、世界内部の諸対立や人間のあいだの垣根はない。その意味で、宗教の基礎は、国民的融合論の基礎でもある。国民的融合論は、この平等の基礎をふまえた戦術論として、また「部落解放の具体的到達目標を示す」(注34)解放理論として、新しく展開することができるであろう。


 また、この平等の基礎は、これまでも宗教者をとらえた「差別・被差別」の対立的思惟方法を、その根本からあらためるものである。


 たとえば、一九八〇年二月に発足した「同炎の会」の問題意識は、つぎのようなものである。


 《本当の解放運動は、差別してきた者の、民間の自律的運動なのではなかろうか。行政だけに、被差別部落の人達だけに、部落差別解放の責任を押しつけるべきではなかろう。もう一度、差別してきた一民間人としての己れを問い、差別の構造を問い直すべき時ではなかろうか》(注35)


 いかにも宗教者らしい、人間的誠実さをあらわす典型でもある。
 堀口牧子氏は、この会を評して、「こういう思想性に裏づけられた運動が差別社会の壁をその内側からつきくずしていく試みとしてより深められ、広められていくべきで」「そのことのなかではじめて私たちは被差別者の解放運動と出会えるだろう」(注36)と強い支持を示す。


 はたして、このいかにも宗教者らしい、人間的誠実さは、どれほどの根拠があるのであろうか。たんなる「差別・被差別」の固定的・対立的視点からは、その誠実さも不可避的にどこかひきつった差別性をのこす見方にとどまることにならざるをえない。


 それは、「被差別者の運動」のたんなる反動にすぎず、必ずそうした「差別する側」の運動は、「差別される側」の運動に「同伴」「連帯」することになるばかりであろう。


 これを超える視点を、「宗教の基礎」の新しい把握をとおして獲得することなしには、「同炎の会」(注37)も一宗教内部の運動としてさえ順調には展開しえないのではなかろうか。「宗教の基礎」を欠いた、たんなる「教団と自己への問い」(注38)を主眼としたものから、はたして何が生まれるであろうか。



              結びにかえて


 できるだけ問題を限定して、「宗教と部落問題」の序説的な論稿を意図したものの、結果的には断片的な所見をちりばめただけで本稿はひとまず終わらなければならない。


 以下一、二の点にふれて結びにかえたい。


 一つは、宗教者の陥りやすい「自己告発や怒りをいだく運動」の危うさについてである。丸山照雄氏は、つぎのようにいう。


 《宗教者が自らの歴史を省みて、自己告発を出発点とし、怒りをいだく運動を生みださぬかぎり、差別の現実を変更するたたかいの一分を担うこともできないであろう》(注39)(傍点、鳥飼)


 こんにちの宗教界の論調は、大半右のような傾きをもつ。その原因と帰結するところは、本文で詳しくみたとおりである。
一時的な告発はできても、真に創造的な新しさは約束されえないことは、誰よりもそれにたずさわる当人の痛感するところであるにちがいない。


 八木晃介氏が、「部落差別問題と宗教者」と題する座談会で、小野一郎氏(日本キリスト教団)、橘了法氏(真宗大谷派)、鷲山傍注氏(浄土真宗本願寺派)ら「宗教者」の発言をうけて、つぎのように語ったことばは印象的である。


 《今、三人の方のお話をうかがっていて、余りに『ねばならない』という感じが強いんです。『ねばならない』というのは、一時期の支えになると思いますが、これはしんどいだけで、多分、持続しない》(注40)


 何事でも、自発的に内から溢れるものにつき動かされてすることなしには、けっして納得のいくものにはならない。それは「持続しない」だけでなく、自他ともにひきつった義務感だけを撒き散らすことになる。


 人間の解放にかかかる取りくみは、どんなささいなことにしても、「しんどいだけ」ではありえない。むしろその基調は、誰にも打ち消しがたい、「基礎」から湧き出る「熱と光」を「土の器」に映すよろこびである。だからこそ「告発」し「怒る」のである。


 二つめは、本文でも述べたように、「宗教の基礎」は、たんに宗教者(教団)にのみ妥当するものではなく、事実存在するすべてに妥当するという点である。


 実際多くの場合、自称「宗教者」よりむしろ、日ごろ「宗教」に批判的立場にあるひとびとのなかに、基礎への健康ないきづかいがみられる。


 この小論では、個々の宗教のいちいちについて言及することをしなかった。
しかしことに、日本の代表的宗教者、親鸞道元日蓮をはじめ、釈迦やイエスといったひとびとの見ていた基礎視座を、あらためて学び直してみることは、こんにち、宗教者の課題であるばかりでなく、現代に生きるものの共通の課題であるにちがいない。


 こうした、人間共通の根源的な基礎の把握が、世界の平和と人権の確立のための、隠れた原動力になるであろうことは、確かなことであろう。また、そのための研讃の努力は、すでにはじめられているといってよいであろう。

                            (一九八三年)


               注


(29)「全解連の態度」のなかにみられる「天上の問題」と「地上の問題」の解き方は、その点、十分な検討をへない見解にとどまっていないかどうか、筆者には疑問の残るところである。(同書、一八九〜一九八頁)。
(30)個人・家族・共同体(国家)の問題に関して、興味ある思索を展開している研究者のひとりに前掲滝沢克己氏がある。とくに『日本人の精神構造―イザヤ・ペンダサンの批評にこたえて』(講談社、一九七三年)参照。
(31)(32)(33)前掲書『宗教と部落問題』(部落問題研究所、一〇四、一〇六〜一〇八頁)。
(34)馬原鉄男『新しい部落解放の理論』(兵庫部落問題研究所、一一七頁)。
(35)真宗大谷派同和推進本部の紀要『身同』二号、一頁の巻頭のことば。
(36)堀口牧子「差別する側の人間の『主体性』とは何か(試論)』(『部落解放』一九八〇年七月号、五六頁)。
(37)丸山照雄氏も「同炎の会」に注目して、つぎのようにいう。「ここを拠点として、各教団に自立の個人、あるいはグループの形成をはかることが可能であろう。」(前掲『現代の眼』一九八一年一一月号、一二○頁)。はたしてこの見通しのとおり展開するかどうか疑問である。
(38)辻内義浩前掲稿(前掲『伝統と現代』七三、二三頁)。
(39)前掲『現代の眼』一二二頁。
(40)『部落解放』一九八一年コー月号、三三百。なおこれは『仏教タイムス』同年九月二五日号の転載である。



〔補記〕


 本稿のみならず本書全体をとおして度々言及した延原時行氏の新しい訳書、ジョン・カブ著『対話を超えて−キリスト教と仏教の相互変革の展望』が、このたび行路社より刊行された。


 この書は、一九八二年に米国で発刊されて以来「いま世界の神学界・宗教学界で最も熱心に論じられている書物の一つ」(訳者あとがき)といわれる。内容に立ち入れないが、たしかにこれまでの「対話」の試みを一歩新しくふみだし、「対話を通り、超える道」(第二章)が大胆に問いかけられている。これは単に「キリスト教と仏教の相互変革の展望」をきりひらくだけでなく、「部落解放の基調」と「対話の道」を探ねる我々にとっても、多くの示唆を与えるにちがいない。なお巻末には「付録」として滝沢克己氏の「『対話を超えて』を読む」および著者の「応答」が収められ、さらに訳者によるプロセス神学者としてのジョン・カブの詳細な解説が加えられている。
                          (一九八六年九月)