連載「神戸からの通信」(第1回)(雑誌『部落』1990年10月〜1991年3月)


宮崎潤二さんの作品(これには説明書きはありません。雑誌のさしえに頂いていたものと思います。)


今回からの小稿は、1990年10月から1991年3月までの半年間、雑誌『部落』の「四地点通信・近畿」という見開きの紙面に求められて寄稿したものです。今回の記録UPでは、タイトルを「神戸からの通信」と変更して、過日スキャンを新調して、パソコンの文字に変換する作業をぼちぼち学習し始めましたので、その習作として進めてみます。





           連載:神戸からの通信(第1回)  


           雑誌『部落』1990年10月号
             「四地点通信・近畿」



 ●丸岡さんの詩集『ふるさと』(正続)は、いまも幅広い人々に読みつがれている。彼は、あの西光万吉と類されることもあるが、彼を慕う人々は後を絶たない。


 『部落−五本目の指をー』から最晩年の未完作「おみね伝」まで(いずれも上記詩集に所収)、部落問題をめぐるまさに疾風怒涛の激動期を共に生き、詩の表現を通して、時に厳しくいつも静かにわたしたちに語りつづけた。そして、乞われるままに、全国各地に出かけては、あの張りのある澄んだ声で、人々の心を熱くさせてきた。彼は一九八五年、忽然とこの世を去ったが、彼が遺したものは、益々今日、その輝きを増しているように思われる。


 ●ところで、丸岡詩集の代表作のひとつ「ふるさと」は、部落問題に出合った人々の中では余りに有名である。それが、まことにうかつなことであるが、この作品を改ざんした「別の作品」が存在していることを、最近になって教えられ、驚いている。


 以前からこの作品は、多くの自治体や関係機関が発行する啓発用の冊子や紙面で、出典を示さないまま、しかも詩型や字句を変えて用いられる場合が多く、作者の没後は、版元のわたしたちの方でも、できるかぎり丁寧にオリジナルな作品に戻していただく努力を重ねてきた。当然のこととはいえ、生前の丸岡さんは、作品の一点一画が厳しく、わたしたちの月刊誌に新作を掲載していただくおりは、編集者としてその都度冷や汗をかかされたものである。


 なのに、この「ふるさと」に限って、何故こうも不備なものが横行するのか、実はずっと疑問を持ちつづけてきた。まさか、この作品のほかに「別の作品」が存在しているなど、思ってもみなかったことである。


●さて、その改ざんされた「別の作品」とは、知る人ぞ知る大阪の解放教育読本『にんげん』の中に一九七〇年段階から収められていたのである。丸岡さんの作品が『にんげん』に入っていることは知られていたが、改ざんされて収められていることを知る人は、それほど多くはないであろう。


 わたしたちがこれを知ったのは、或る東京の出版社から発行された書籍に『にんげん』からの「別の作品」の引用があり、その書籍からの引用を予定されていた或る自治体から、この存在を教えられて初めて気付いたのである。ご参考までに、丸岡さんのオリジナル作品と『にんげん』の改ざん部分をあげておこう。


              ふるさと

   
        ″ふるさと″をかくすことを
        父は
        けもののような鋭さで覚えた


            ふるさとをあばかれ
            縊死した友がいた
            ふるさとを告白し
            許婚者に去られた友がいた


        吾子よ
        お前には
        胸張ってふるさとを名のらせたい
        瞳をあげ 何のためらいもなく
        “これが私のふるさとです”と名のらせたい


 この作品が『にんげん』では、「溢死した友がいた」を「ふたたびかえらぬ友がいた」に、「吾子よ」を「わが子よ」に、「お前には」を「おまえには」に、それぞれ改ざんされている。
 

 丸岡さんは生前、こうしたことがあるたびに、「次に利用されるときにはもとのものにしてください」とご返事されていたことを奥様からも聞いており、『にんげん』編集部へは早速、今後は出典を明示することとともに増刷の折はオリジナル作品に改めるべく伝えておいた。(編集部の話では、この「変更」は作者の了解のもとにすすめたものである、意向は分かったので増刷では原作に戻したい、とあった。ただ、作者了解の経緯の詳細を求めているが未聞のままである。)


 周知のごとく、この作品は「おおい/ミンナ 見てくれ」ではじまる作品「吾子誕生」のときのもので、最晩年の「吾子成人」と対になる作品であり、今から四半世紀も以前のものである。


 丸岡さんの独自な詩の世界は、時代を越えて人々の心に響き渡るものではあるが、同時にそれは、その時代と生活の場の中から叫ばれ、溢れ出たものであることを無視することは許されない。二〇年前には、丸岡さんは独自の判断で、差別の事実を人々に訴えるために、自作をそこに収めることを了承されたのであろう。が、果たして現在、また今後、こうした用いられかたを丸岡さんは望まれるかどうか。


 ●その点、おそらく丸岡さんは、先の「朝まで生テレビー人権と部落差別」
の二回目の冒頭で、永六輔さんがこの「ふるさと」とあわせて、「東京土産」
の中の次のことばを紹介されたその勇気に対し、深い喜びを覚えておられる
に違いない。


 「糾弾で沈黙させることはできるかもしれぬが/それは 納得したことと
は違う/糾弾は 物言わぬ人をつくる/黙ってさえいれば ケガはないと/貝のような人をつくってしまう/糾弾は 心に癒え難い傷を遺す/爪跡を遺して 何の人権教育だろう/糾弾は 本当の敵を見失わす/〈カタキヲマチガエンヨウニセンニャー〉は/私ら二〇年の大切な合言葉だった/心を開き合う所からはじめねばならぬのに/“差別者”のレッテルなんか貼りつけ/重たい沈黙を強いる/いつか来た道に 似通っていないか/頭をもたげてきた/“アカ”や“非国民”のレッテルに通じてはいないか」


 永六輔さんの快諾を得て、この時のお話を、丸岡さんの詩集『ふるさと』前掲正続合冊の「愛蔵版」刊行の際、「序文」として入れさせていただいた。聞くところによれば、今年一〇月三一日の防府市公会堂で開催される第四回山口県部落問題研究集会では、丸岡さんの没後五年目を記念して、永六輔さんの記念講演が予定されているとか。丸岡さんは、いまもこうして生きておられる!


                     (兵庫部落問題研究所事務局長)