「部落問題の対話的解決のすすめーキリスト教在家牧師の小さな模索」(雑誌『部落』2000年6月号)


宮崎潤二さんの作品「小説『ドブ板のうた』の挿絵」



『部落』2000年6月号(特集)宗教と部落問題


          部落問題の対話的解決のすすめ


          キリスト教在家牧師の小さな模索


               鳥飼 慶陽

    
              「軽い小話」


 新しい「千年紀」で「ミレニアム」などと呼ばれ、二一世紀を目前にした節目の二〇〇〇年をいま歩んでいます。年明け早々、全解連神戸市協のお歴々の会議がありました。合議のあと懇談会が用意されるので、そのお酒の肴になるようなタメニナル「軽い小話」をという依頼をうけて、会議にのこのこ出掛けましした。


 出掛けるといっても、自宅から歩いてすぐ近い場所ですが、かつての「日本一の都市部落」として知られたこの地域も、三〇年ほどの集中的な取り組みの成果がみのり、神戸市内の他の地域と同様、かつての面影を消した新しい都市の「まち」に変貌を遂げてきました。とりわけ、五年前の大震災を経た現在、ひとりの住民の生活実感としても、その感を強くしています。


 一九六〇年代、生々しく残されていた「差別と貧困」を、住民の総力をあげて解決していくための組織的な部落解放運動が、この地域を拠点にして地道に、そして果敢に展開されてきました。今回の会議はその活動拠点である「全解連会館」で行われましたが、ナントその慣れ親しんだ看板が、年明け早々新しく「兵庫人権交流センター」へと酒落た名前に取り替えられていました。神戸における部落解放運動も、長かった同和対策事業の完了を果たし終えて、すでに新しい段階をむかえている徴しが、この看板の取り替えに現れているのでしょう。


 本稿の意図をいくらかでもお分かりいただくために、そこでの拙い「軽い小話」に少し触れておきます。といってもそれは、個人的な打ち明け話のようなもので、むかし一九六〇年の半ば過ぎ、緑あっていまでは殆ど若者には名前さえ忘れられている「賀川豊彦」の活動した神戸の下町、かつて「葺合・新川」などと呼ばれていた地域に建てられた教会に招聴されて、はじめて神戸の「裏町」を経験し、当時まだ「未解放部落」などという呼称も違和感のなかったもう一つの下町(右の「日本一の都市部落」)に居を移して暮らし始めることになった動機とか、そこでの解放運動や自治活動に関わってきた経過など、これまで三〇年あまりのあいだ自分なりに学び、大切にしてきたことの断片を短く放談しただけのものでした。


           「三つの領域」と《基軸》


 ついでにさらにここで、この時の放談の中身の「骨」だけを短く添えさせていただきますと、これは私の身近な先輩や先達から学び取った貴重な知恵のひとつですが。(その先輩のひとりは、現在新潟県新発田市にある敬和学園大学の教授として、アメリカ宗教学会などで「仏教とキリスト教の対話」という近年ホットな研究分野の第一線で活躍し、最近ジョン・B・カブJrの『生きる権利・死ぬ権利』(日本基督教団出版部刊)を翻訳出版して話題を呼んでいる延原時行先生であり、先達のひとりは今は亡き哲学者の滝沢克己先生ですが、それはともかくとして。)つまりそれは、次のような人間存在のトータルな関係構造に関するものです。


 《我々の存在はつねに関係的である。つまりそこには「対人性」「社会性」「個人性」といった三つの関係領域が成立している。その三つの関係領城がバラバラにでなく「基軸・原点」によって三つの領域は切り結ばれている。>というものでした。


 とたんにへンなことをと思われるかも知れませんが、決して難しいことではありません。先日も震災で苦しい経験をされた方が話しておられましたが、あのとき自分は家を無くして家族を守るために必死で、さらに仕事場も駄目になり会社の再建に日々追われ、そして何よりも自分自身のことで頭が一杯だったと、これまでの五年間を振り返っておられました。つまり彼は、妻や子どもを守るための「対人性」の領域と、仕事の復興という「社会性」の領域と、そして私一人の「一人性」ともいわれる「個人性」の領域を、どれも大切にして「身の引き裂かれるおもいで」毎日を乗り越えてきたと言われるのでした。私たちの日常は、足場の《基軸》を忘れて、忘れていることも忘れて、「三つの領域」をごちゃまぜにして右往左往するばかりですが、この方の「三つの領域」をごく自然に了解しつつ、どの領域にも積極的な意欲を持ち、当面する生活の課題に挑戦しておられる姿に、私はそのお話しを聞きながら深い感動を覚えました。


 日本基督教団に所属する世界一小さな「番町出合の家」の「在家牧師」である私にとって、いつも心にとめていることは、ただのひとりの人として「いま・ここ」に事実存在していることの不思議さ・ありがたさを身に覚えつつ「信じて生きる」こと、仏教的なことばでは日々の日常のただ中で「信心決定」するよろこびを共にして歩み続けることです。 別のことばで言い換えれば、先の「個人性」「対人性」「社会性」の要めとなる「基軸・原点」そのものの動態(ダイナミズム)をふまえ、そこを支えに、そこからそこへ向かって照応・即応しっつ、この「三つの関係領域」が全体的に健やかに開けていくように微力を尽くすということにあります。


 したがって、放談の「小話」の趣旨は、長年にわたって部落解放運動という「社会性」 の領域の「解放運動」に共に打ち込んで来た私たちは、これまで同様に家族や友人という「対人性」の領域も、また自らの足元の事を日々耕す「個人性」の領域も、どれもしっかりと視野に入れ、「三つの領域」を束ねる最も重要な座標軸である『いのちの基軸』を見失わずに、この「新しいミレニアムの二〇〇〇年」をスタートさせようという、まことにオメデタイ「新年の小話」でありました……。


             「開かれた対話」


 さて、益々ヘンな長い書き出しになってしまいましたが、右のことに関連してもう一つ大きな関心事があります。それは「開かれた対話」への意欲です。一九五〇年代の終わりから六〇年代の前半が私の同志社神学部の学生時代でしたが、そこでの痛切な問題意識は、人間の陥る見分けがたい独善的な排他性の病巣の根っこは何であり、それを解く健は何処にあるのかということでした。その間いを尋ねる過程で、私の場合、先に先達として挙げた哲学者・滝沢克己の学問との出会いがありました。


 ここで詳しく立ち入ることはできませんが、前記のように、私たちの世界の座標軸である「原点」(基軸)が、絶対無条件にすべての人と共に実在するという《原事実》の「発見のよろこび」に邂逅し、そこから「自由な出会い」と「開かれた対話」へと歩を進めることになりました。


 こうして今日まで、宗教関係者との出会いばかりでなく、ごく普通の生活の場所での「出会い」と「対話」をエンジョイすることができました。とりわけ、神戸における部落問題解決の歩みを共にする中で、「宗教と部落問題」という主題に関連する小さな模索は、折々の必要に迫られてあちこちに拙い論稿を書いてきました。一九八五年以前の主なものは 『部落解放の基調−宗教と部落問題』(創言社刊)において、またキリスト教界の「賀川問題」に触れては『賀川豊彦と現代』(兵庫部落問題研究所刊)においてまとめてみました。いずれも「宗教と部落問題の対話的解決」をめざした粗末なノートでありひとつの試論に過ぎないものです。
 

 そして、部落問題解決の最終段階で、あの大震災を経験したあとに、小さなブックレット『対話の時代」のはじまりー宗教・人権・部落問題』(兵庫部落問題研究所刊)を「番町出合いの家からのレポート」としてつくってみました。これはもちろん、私の所属する「キリスト教界への対話の試み」ですが、ひろく無宗教・反宗教を自認される方々への「対話のすすめ」でもありました。


 これがどれほどの役割を果たすものか、まことにおぼつかないものですが、どういうルートからか真宗大谷派のあるグループの方々の目にも止まり、読書会のテキストに取り上げて、このところ毎月、自由に検討をしていただいているようです。かつて同派の専修学院で学び、同和推進本部で働いていた笠原初二氏の遺稿集『なぜ親鷲なのか』が京都の法蔵館から出されて、その論評を『思想のひろば』(創言社刊)の創刊号に記した程度の関係しかないのですが、本当に「真理・真実」に「開かれた対話」として、実りある相互批判がはじまることを期待しているところです。


        『「対話の時代」のはじまり』以後


 ところで、今日の宗教界は、特に「同宗連」に結集する諸教団の教団政治のあり様は、旧態依然としたものです。
 今年の『月刊部落問題』(兵庫部落問題研究所刊)新年号で、加藤西郷先生が「宗教と部落問題」の論稿で言及しておられましたが、現在の宗教教団は特に一九八〇年代初頭の解放同盟による「糾弾」以後、つねに「同宗連」の枠内で、つまり解放同盟の理論と実践に連帯する宗教教団としての「同宗連」の枠組みの内に自縄自縛され、閉じ込められています。


 「同宗連」の府県レベルの組織化の過程では、「連帯会議」という特定の運動団体との「連帯」を表示する名称を嫌って、部落問題の解決のためのゆるやかな「連絡合議」の名称を選択しているところもありますが、実際には加藤先生のご指摘のとおり、旧来の閉じられた枠組みをはずすことができないできています。


 それでもしかし宗教教団というものは、本来的には既存の諸権威に住することを潔しとせず、ましてそれに任几れ掛かって身を守ろうとする傾きを嫌います。ところが、悪しき意味での教団政治が支配しているときは、外部の諸権威を逆用して自らの保身を計ろうとするものです。その点、教団とそれら諸権威とは相互に密通しあって「持ちつ持たれつ」する癒着関係が生まれやすくなります。この危うさについては、それぞれ責任の位置にある当事者が一番切実に自覚している筈です。


 ですから本来的には、宗教教団としては、例えば外部の諸権威のひとつである「解放同盟の傘下」という枠組みをキッパリと脱皮して、教団の主体性・自主性を取り戻したいというのが、責任を持つ位置にある人々の本意です。


 「解放新聞」という解放同盟の機関紙の今年三月一日付けを見ますと、一頁全面をつかって浄土真宗本願寺派の北海道教区の「差別発言事件」が取り上げられ、「宗教者本来の原点に立ち返れ」「教団全体の、僧侶と門信徒が一体となった基幹運動の強化を」という見出しが大きく踊っています。これを拝見しますと、同教団においては、教団中枢に対してはもちろん、全国の各教区・組に至るまで、解放同盟による「点検・協議」が、現在もなお延々と積み重ねられているようです。


 このような教団自治が根底から揺さぶられているようにも受け取れる事態を背景にして、いま教団の内部で自発的に始まったという「真宗フリートーク」の取り組みは、起こるべくして起こった「内部変革のいぶき」として、私たちに伝わってきます。この「いぶき」は、関係者の私心のない清々しさが呼び起こした新たなムーブメントとなっているようです。


 この動きは、既に数年前から「宗門のすべての人に開かれた集い」として生まれており、一九九九年三月発行の『真宗フリートーク』創刊号に記載の浄泉寺・大原光夫師によれば、いま「本山とご門徒衆や各住職との距離がどんどん遠くなっている」ので「本来、基幹運動本部や宗門が率先しておやりになることです」が、まず「私たちが、自由に何のこだわりもなく高ができる場所」を提案したのだと言われます。
                                     
 続いて昨年一二月に発行きれた第二号によれば、創刊号は「本派各寺院、全国的約一万力寺と教務所・別院に送付され」「約一カ月ほどで、葉書・手紙・電話」など三〇〇件を越え、三二〇万円の「浄財」が寄せられたそうです。


 そしてその機関紙には、寄せられた率直な声の多くが、そのままのかたちで掲載されています。今年一月一八日に広島別院で開催された「全国交流研修大会」の詳しい模様やその後の展開など、ぜひ伺ってみたいものですが、皆さんの自発的なこうした「フリートーク」の工夫は、部落問題の解決にとってばかりでなく、それこそ「ベルリンの壁」や「ソ連邦」の崩壊にも似た、教団の内部から新しく変革されていく静かな、晴朗な徹しのひとつとして、全国的な広がりを見せているようです。おそらくこの爽やかな風は、同教団を越えてほかの語数団・諸分野にも広く及んでゆくかも知れません。


         「対話」による解決のすすめ


 全く個人的な好みにすぎませんが、なぜかこのところ朝は道上洋三の「お早うパーソナリティ」のラジオで起床し、夜は筑紫哲也の「多事争論」のテレビを見て眠る習慣になっています。どちらも押し付けのない独自な主張があり、柔軟な「対話の世界」が感じられ、「現実への開かれた窓」 のひとつになっています。


 生来、私は人前で話したり「争論」したりすることが苦手で、黙って人のお話しを聴くことの方が似合っています。仕事がら柄にもなくこの頃学生たちに向かって話すこともあり、その楽しさも少しずつ分かって釆ましたが、やはりいつも私流のスタンスになります。


 いま、堀田善衛の『航西日誌』(筑摩書房)を読んででいますが、そのなかに彼は、モームの「作家の手帳』の序文にある「イギリスの作家たちは、……感心したからといって熱狂的になることはなく、また感心しないときは、誹謗するよりただ黙殺するという態度をとる。……彼らは、自分が生き、ひとをも生かす。」といったことばを引いたあとに、次のようなことを記していて、とても共鳴を覚えました。


 「私自身は、モームの言うイギリス型に近く、『自己中心的』に仕事をし、生きて釆た。人に噛みついたこともなく、噛みつかれても噛みかえしたこともない。自分の理解出来ないものについては、それもまた特殊な存在理由があるのであろうし、自分のワキへ置いて、時間をかけて眺めることにしてきた。眺めているうちに、大抵のものは溶けてなくなってしまった。」(六九−七〇頁)


 私も、堀田のような生き方や間の取り方に共感するところが多く、「対話のすすめ」といっても、「自分が生き、人をも生かす」ような表現のかたちが望ましく思います。現在の「宗教界の部落問題」の多くは「時間をかけて眺め」「眺めているうちに、大抵のものは溶けてなくなってしまった。」などと言えるものかも知れません。


 私たちの教団では、二一世紀を目前にしたいま「日本基督教団部落解放方針」といったことを議決すべく討議が継続されています。長かった部落問題解決の取り組みが、漸く一区切りとなるこの時に我が教団においては今年の教団総会で「部落解放方針」を確立して、これまで以上に取り組もうということですから、これから私もじっくりと腰を落ち着けて、関わりを持たねばなりません。その意味では、「部落問題の対話的解決のすすめ」は、まず当面私自身のこととして、これへの「対話のすすめ」が課せられているようです。兵庫部落問題研究所の裏方の仕事ばかりでなく、そろそろ「牧師の仕事も真面目にやれ」という声も聞こえたりする昨今ですが、これもやはり私流のやり方で、これまでどおりポチボナと体重をかけて取り組んで見たいと思います。


 今回は少し語調を替えた、ひとりよがりなレポートになりました。大切な紙面を汚した上に紙幅も越えましたので、この度はこれで。


 −二〇〇〇年三月−
              (とりがい けいよう/番町出合いの家牧師)



資料として掲載誌をスキャンして置きます。