「部落解放とは何か」(第1回)(1986年、第5回広島県部落解放研究集会)


宮崎潤二さんの作品「ニュージーランドクライストチャーチ市図書館」



 今回記録としてUPしておくものは、1986年のもので古いものです。これまで取り出しているものも、ご覧にいれるのは恥ずかしいものばかりですが、それで、その時の状況のなかでの発言でもありますので、ここに収録しておくことにいたします。


 なぜこのとき、わざわざ広島まで出かけることになったのか思い出せませんが、今回の書き出しのところを読めば、私にとって初めての単著となった『部落解放の基調ー宗教と部落問題』を福岡の創言社より出版した後だったようで、そういうことからのお声だったのかもしれません。




         
            部落解放とは何か(第1回)
 

           1986年10月26日


          第5回広島県部落問題研究集会



              Ⅰ はじめに


 「部落解放とは何か」という、たいへんなテーマを与えられています。昨年「宗教と部落問題」にかかわって『部落解放の基調』という小著をまとまましたが、そこでは「部落解放とは何か」について、いくらか言及はしたものの、中心的な主題ではありませんでした。まことにこころもとないことですが、日頃の考えを率直に申し上げて、ご一緒に学ぶことが出来ればと思っています。


 ご承知のとおり、大正11年3月3日に「人の世に熱あれ、人間に光あれ」という、あの有名な宣言で知られる「全国水平社」が創立されました。あれからはや65年近く経過いたします。その間、数知れない多くの人々が、「部落解放」を求めて労苦を共にしてこられました。厳しい差別のもとでの「部落解放」のたたかいは、心ある人々の共感を生み、その連帯の輪も大きく広がってきました。


 しかし、1960年代後半から、部落解放運動の内部に許し難い腐敗と独善が跋扈しはじめ、内外からの批判と不信が渦巻き、まさに部落問題をめぐる「疾風怒濤」の歳月が、全国的規模で拡大されました。


 なかでも、私たちの兵庫県但馬地方における「部落解放」の名による蛮行はすさまじく、県立八鹿高校の56名もの先生方に集団リンチを加える事態にまで転落しています。


 したがって、その頃(1974年)からの私たちの部落解放運動は、それまでの本来の取り組みに加えて、不当にも歪められてしまった「解放運動」や「同和教育」、また主体性を放棄した「同和行政」を糾していく取り組みが、大きなウエイトを占めることになりました。そして今なお、この課題は継続しています。


 こうしたなかで、本年(1986年)8月5日、地対協基本問題検討部会が「報告書」を好評いたしました。この「報告書」は、現行法の最終年度の重要な時期での公文書であるだけに、各方面に大きな波紋を呼び起こしています。


 これの意義と評価については、本集会で詳しく触れられると思いますので、重要な内容を含んでいますが、ここでは立ち入りません。


 ただ、同和対策審議会の「答申」が出されてから21年後の今日、このような指摘がなされなければならないことに対して、強い悲憤を覚えさせられるとともに、あらためて私たちの取り組みの重要性を痛感いたします。


 「確認・糾弾」にあけくれる「運動」や、それに迎合する「行政」「教育」などの関係者の責任が、この「報告書」において厳しく問われていますが、問われている側からは、展望のない居直りの抗議がくり返されるばかりです。


 しかし、この「運動」に同伴したり「連帯」したりしてきた人たちのなかにも、また「運動」内部にも、いま大きな「地殻変動」が起きつつあるのも事実です。


 この新しい状況のもとで、「部落解放とは何か」ということを、あらためて問い直し、私たちの共通の出発点を確認して、目標のハッキリした取り組みをすすめることは、とくに重要なことであるに違いありません。


 ただ、残念なことですが、これまでの歪んだ「解放運動」のために、「部落解放」という言葉さえもが、多くの人々にマイナスイメージとして受け止められています。それだけに、逆に私たちとしては、実践の上でも、考え方の上でも、私たちのめざす「部落解放」の本来の真意を継承・発展させる責任が負わされていると言わねばなりません。


 私たちが、部落解放の基本方向を、「住民の自立と連帯をめざす国民融合の方向」に見て、前進をはじめてから、すでに10年異常が経過しています。そして今、湯田から実践的成果を踏まえて、確かな「21世紀展望」のもと、部落解放に責任を持つ人々の取り組みが、各地で積極的に展開されつつあります。

  (続く)