「人としてのしあわせ」(中)(1992年、兵庫県大屋町人権週間講演)


宮崎潤二さんの作品「ホテルの勤務員:ペテルブルグにて」



こういう記録は分割しないで一括掲載がいいのですが、昨日は急用で中断してしまいました。そして今回も途中で終わり、明日に続くことになってしまいました。悪しからず。


実はこういうドキュメントは、うまく変換して仕上げる方法があるらしく、本日午後知人に会って、その方法を伝授していただこうと思っています。それができるようになれば、同時進行のほかのブログの作業も、大分はかどるのではないかと、期待しています。万事が、一歩一歩ですね。


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         人としてのしあわせ(中)


          199212月8日「人権の集い」


           兵庫県大屋町町民センター



   (前回のつづき)


 わたしは、昭和51年(1976年)に『私たちの結婚』という小さな本をつくたことがあります。今から16年も前のことです。


 当時まだ部落問題が結婚の壁として残っていたころで、その壁を乗り越えて「人としてのしあわせ」をつかんで生きておられるご夫婦を訪ねて、まとめた書物です。類書がなかったこともあって、今でも読まれ続けています。


 わたしたちは、思うところがあって、昭和43年の春から現在生活を続けています神戸の下町の、かつて同和地区として問題が山積していた地域で生活をはじめておりました。


 昭和43年といいますと、まだ行政上の、また教育の上での取り組みも、これからというときでしたから、地域での暮らしはとてもたいへんな状態が残されていました。そして、それらをなんとかして解決したいという願いが、ようやく地域の中からも外からも、熟してきたときでした。わたしたちも、そのなかで、長屋の六畳の一室を借りて、家族4人、ゴム工場で雑役をしながらの生活を始めました。


 あれから四半世紀、みんなが力をあわせて頑張りました。わたしたちの地域は、一万人を超えるような大規模な地域ですので、まだ400戸ほどの住宅建設が残されていますが、ほぼめどがたって、かつての状況が一変しつつあります。


 そうした取り組みのなかから、「結婚」についても深く考えさせられました。そして、未だ壁が厚かった時代に、その壁を乗り越えて「しあわせな結婚家庭」を築いておられるご家庭を、あちこちお訪ねしてまわりました。ご夫婦の、いわばおのろけ話を聞くことになるわけです。それが実に素晴らしい! 18組のご夫婦から、うちあけばなしを聞かせていただきました。


 詳しいお話はできませんが、差別の厳しかった時代に、二人の男女が出会って、結婚の絆を受け入れて、次々と出てくる障害をひとつひとつ乗り越えて結婚家庭を築いていく。それを、友達や親しい人達が励まし、支えていく。その事実が、新しい時代を切り開いてきましたし、若い人達のへの励ましにもなっていきました。


 こういう問題にわたしたちがつきあたりますときに、強く考えさせられますことは、「結婚の絆」というのは何だろう、ということです。相談を受けますときも、お二人が「結婚するということはどういうことか」を、一緒に考えることにしています。


 単にふたりのあいだの「愛」の確かさではなくて、その結婚の「絆」がふたりのあいだに受け入れられているかどうか、その不思議な「絆」が、お互いに受け入れられていますと、そこから謹んで、その「絆」を大事にし、実らせるために、安心して、誠実な努力が重ねられていきます。


 皆さんは笑われるかもしれませんが、わたしは時々、若い学生さんたちに「結婚論」を話す機会がありますが、「この人となら、よろこんで生涯ともに苦労のできるひとだな」と思える方と結婚するのがいいんじゃないかな、などと話したりいたします。


 こうした「夫婦」「親子」「友だち」といった関係は、とても大事なことです。そこが健やかに成り立っているかどうかは、とても大きな問題です。


 同時にまた、わたしたちが生きていますときには、必ず「共同関係」といった独自な関係が成り立っています。この関係もいろんな場面があります。


 例えば、家族・親族というある種の「血族関係」、また隣組、村、地域社会という共同関係、あるいはまた会社、学校といった関係、あるいはもっと大きくみんぞkてき・国家的な共同関係など、実に多様な関係のなかで、人としての「共同のしあわせ」を実現させていく課題が、万人に期待されています。


 「共同」ということは、おたがいに、またひとりひとり異なったもの同士が、そうした場所で受け入れあって「共に生きる」ということですから、それがうまくいくかどうかは「人としてのしあわせ」の大事なことです。


 安心して年老い、安心してぼけ、安心して病気になることができるまちを、どうしてつくっていくのか。外から移ってこられた人達に対して、よそ者扱いをしないで、生きることが出来れば、本当にしあわせです。


 「こころが通じ合う」というのは、不思議なことですが、わたしたちは、いまの町での生活をしていて、はじめから、ありのまま受け入れられてきました。はじめから、壁などないんだ! ということを知りました。住民の一人として受け入れられる。下町の良さなのかもしれません。片意地をはらずに、苦労を共にして生きることを学ぶことができました。


 実際、この四半世紀の間、青春時代から今日まで、問題の解決のための取り組みの渦中にあって、いろんなかかわりに加わらせていただきました。そして、多くの方々の努力で、地域も大きく改善されて、今日にいたっています。


 こうして、これまでの「特別措置」から自立していく取り組みが進んでまいります。はじめは「特別措置」が必要でしたが、一定程度取り組みがすすみますと、逆ぎそれをだらだらと継続することで、逆に弊害が生まれてまいります。


 そのために、ある時期から、丁寧な「見直し作業」が行われて、多くの施策が廃止され、必要なものは一般的な取り組みへと移されていきました。そして、かつての「地域」と「地区外」とわけて考えるような枠組みを超えて、「福祉」「教育」「仕事」など街全体の課題との関連の中で、取り組みを進めるようになっていきました。


 例えば、わたしたちの町でも高齢者の方々が増えてきました。一人暮らしの方が多くなってきました。皆さんお大屋町でも平成2年度では総人口に占める65歳以上の人の割合が26・4%になっています。昭和30年で6・7%ですからたいへんな増加率です。そのために「触れ合い郵便」とか「福祉の里づくり」に努力されていることをお聞きしました。


 わたしたちのところでも、ささやかですが、給食サービスや入浴サービスが行われたり、特別養護老人ホームなどの建設運動が、地域をこえて多くの人々の賛同をえて、ようやくみのったりしています。


 そしてホームヘルプ活動や高齢者の仕事づくりなどをつつめる福祉生協づくりや、自分達でお金を出し合って運営をしていく「教育文化協同組合」運動が取り組まれたりしています。それから「住宅まちづくり協議会」のような組織もあって、まさに「新しいまちづくり」の住民運動が始まっています。これらの活動は、「人としてのしあわせ」を生んでいく大事な活動であることは、いうまでもありません。


 このように「人としてのしあわせ」は、親子、夫婦、兄弟などの関係がうまくいくこと、また「地域社会」や、本日は触れることができませんが、「会社」(仕事場)などの、いわゆる「共同社会」における関係がうまく機能していくことが大事なことです。


 しかし何よりも、その関係をつくりあげていくその基本は、「あなた」であり、「わたし」です。この「わたし」は一体何者なのか、そこを知ることが、実は、本当に「家族」を大事にし、「地域社会」を大事にし、国を大事にする基本だということを、今晩はあらためて学びたいのです。

(つづく)