「人としてのしあわせ」(上)(1992年、兵庫県大屋町人権週間講演)


宮崎潤二さんの作品「ハバロフスク・自然博物館」


 今回も古いものですが、当時「兵庫県養父郡大屋町教育委員会」の招きで、1992年12月8日の夜、町民センターでお話したものが残っていましたので、記録として収めて置きます。


 この夕べのことは記憶に残っていますが、一晩泊めていただいて翌日も「住民啓発リーダー」といわれる方々と打ち解けた懇談をして戻りました。


 この記録は1994年3月号の神戸自立学校の月刊誌『いぶき』(第111号)にも掲載していましたので、読みにくいものですが、それをスキャンしてUPいたします。


(補記 一度スキャンしてみましが、やはり文字がよく読めません。それで、本日は少し時間がとれますので、改めてパソコンに打ち込んで置きます。ただし、途中で急用のため中断して、続きは次回廻すことになりますが、悪しからず。こういうことも、ブログの面白さなのかもしれません。))




         人としてのしあわせ


           1992年12月8日


           大屋町人権週間での講演


 本日はじめて皆さんの大屋町にまいりました。先日「町政要覧」という美しいパンフレットを送っていただいて、隅から隅まで拝見いたしました。「星と語る森と清流の町」大屋町、というものでした。何か小学生のころ、修学旅行に出かけるときのような、そんな気持ちでお訪ねさせていただきました。


 ただいま過分のご紹介をいただきましたが、「先生」などと呼ばれることはめったにありませんので、ほかの人を紹介されているような感じがいたします。また、わたしは「牧師」ということですが、それよりまえに、みんな「人間」という同じ肩書きがつけられています。「ひと」として生まれ、「ひと」として命を終えていきます。そして、いくつになっても生きている限り、「人間って何だろう」「しあわせって何だろう」という問いを持ち続けて歩んでいます。


 先ほどは、中学生の皆さんの素晴らしい作文の発表がありました。誰でも似たような経験をもっているものですが、ある人がむかし中学生のころ、学校の帰り道、お百姓さんが田んぼ道のちいさな川で、芋を洗っておられたのか、小さな水車みたいなものを分で居られたところが目に留まったのだそうです。


 その時、その中学生はふと「このおじいさんは、あんなにして水車を踏んで、結局どこえいくんだろう」という気がしたのだそうです。そしてそれが、自分のことのような気がしてきて、その問いがどんどん膨らんで、彼は以後、高校・大学へと進みますが、結局この方は、このご自身の切実な問題を解く為に、東京大学の法科に席を置いていたのですが、九州大学の哲学に移られて、後に大変な大きな仕事をのこされました。これは「滝沢克己」という先生ですが、1984年に74歳でお亡くなりになりました。


 わたしは学生時代、この先生の書物に出会って、とても自由になりました。無理をしないで、生活ができるようになったように思います。


 のっけから、変なお話になってしまいましたが、みんないっぱい悩みを抱えて、毎日を生きています。人にはいいませんが、誰でも自分の悩みを持っています。今晩のテーマは「人としてのしあわせ」となっています。どんなお話になるかわかりませんが、初めに今晩お話をしてみたいと考えている要点を申し上げておきます。そうしておきますと、話が大きく脱線しましても、安心ですので。


 わたしたちはいくつになっても、思いがけないことで「つまづき」「苦しみ」「悲しみ」「失敗」したり「病気」になったりいたします。それらは決して自分から望まないものですが、それらからお互いに逃げられません。


 ふつう「しあわせ」は、健康で経済的にも恵まれていること、つまり苦労の少ないことを考えます。心と身体の「病気」、あるいは「貧しさ」、また戦争などの「争い」などに巻き込まれないで生きること、それが「人としてのしあわせ」であり、そのために、みなが力を合わせて、共に生きているわけです。


 同時にしかし、ほんとうにそうした「しあわせ」をお互いのものにしていくためには、それなりの「苦労をいとわない」ということが含まれています。自分のためにも、家族のためにも、この街のためにも、世界の平和のためにも、なにがしかの苦労を共にすることが、わたしたちのしあわせなのだということを、こんばんは申し上げたいのです。


 岡林信康という歌手をご存知でしょうか。彼は一時期、フォークソングの神様と呼ばれて、関西でも大変人気を集めました。最近でも時々テレビやラジオに出演しています。このまえ、C・W・ニコルさんとジョイントコンサートをしていたようです。


 彼についてたくさんお話をすることがありますが、「人としてのしあわせ」を考えるときに、彼の「わたしたちの望むものは」という歌を思い起こします。それは、実に若者らしい歌です。


 「私たちの望むものは、生きていく苦しみではなく、生きていく喜びなのだ!」という節に続いて、歌うのです。「私たちの望むものは、生きていく喜びではなく、私たちの望むものは、生きていく苦しみなのだ!」と。


 「しあわせ」の感じ方や考え方は、実にいろいろです。ひとりひとり違います。お互いに「個性」「持ち味」が違います。そこが面白いところです。同じ両親から生まれても、子供はそれぞれ違って、生きる人生も別れてきます。


 不思議なことに、この世界で、日本という国で、大屋町で、この両親のもとで、長男とか次女とかで、生まれてきました。そしていろいろあって、いろんな仕事についています。公務員の方、会社にお勤めの方、農業の方、主婦業をなさっている方、いろいろです。また、定年後の「自由業」をされている方もあります。


 どんな職業でも、いくつになっても、自分が今打ち込んでいる仕事や生活の仕方に対して、これでいいんだろうか、また自分自身のこととして、私の持ち味が本当に活かせているのだろうか、ということを考えながら生きています。


 「しあわせ」ということは「悩みや心配事がない」ことだと思われるかもしれませんが、人であれば誰も悩みを持ち、心配ごとをもって生きています。心配が何もないようにしている人ほど、ほんとうは心配を抱えて生きておられるのだと見たほうが、真実に近いように思います。


 ただ、その悩みや心配ごとを、どのようにその都度乗り越えて一生を送るのか、悲しみでも、どのような悲しみ方をするのかで分けれtきます。


 例えば、子供の成長を見ていても、その子の持ち味を十分に発揮できるように手助けをすることで心配したり、いっしょになって悩んだりすることが出来ればいいのですが、往々にして親の勝手な価値観で子供に押し付けて、岡小関係ばかりでなく子育ての仕方をめぐって、夫婦関係がギクシャクしてしまうことがあったりいたします。


 少し前置きが長くなりましたが、今晩は、わたし自身の個人的な経験などを交えて、断片的なうちあけばなしのようなことを申し上げて見たいと思います。


 わたしはここからすぐ隣の鳥取県の出身です。大山の裏、関金町という小さな温泉のある田舎町が故郷です。男ばかりの3人兄弟の末っ子ですが、父は戦前、中国東北部、当時の満州結核のため30半ばで亡くなりました。ですから、父をよく知りません。戦争で父をなくした母子家庭は決して珍しいことではありませんが、幼い時から父とは別れた生活をして、5歳のときに母が父の遺骨を「満州」から持ち帰って、家の仏壇の前でそれを開いて見せてくれました。うす暗いローソクのともしびのもとで、皆が涙を流していて、わたしも一緒に泣いていた記憶だけが、今も残っています。


 わたしも小児結核で、中学に入るまで学校での体操が禁じられていましたが、母の細腕によって、生きながらえてきたように思います。幸いまだは母は田舎で元気に暮らしていますが、わたしは幼児体験で忘れられないことがあります。


 ずっと自分の中で秘めていたことですが、こんばん初めてお話しするのですが、わたしはやせて病気ばかりしていました。ある時、病気をこじらせていて、母がわたしを背負って、何日も何日も、家からだいぶん離れたところにあるお地蔵さんまで、お参りに通い続けたことがありました。いくつのときかはっきりしません。でも、みぞれの降る、冷たい風のふく寒いときに、背負われていたときの、あの経験・情景は忘れることはできません。


 一年にいちど、夏のお盆のときに田舎に帰り、80杉の母の顔を見るのですが、今年の夏、なんのきっかけでしたか、食事どきにそのことをわたしは初めて母に話しました。母はそれを覚えていて、「それは、おまえの百日咳の時だった。がんこなせきで死にそうだった。ほんとうに百日がかりだった」と母は云って、ごくふつううのこととして笑っていました。


 人間はおもしろいもので、ふと、そんなことを思い起こします。そんな経験は、みなさんもお持ちだと思います。


 こんばんは「人としてのしあわせ」について考えています。いま、母のことをもうしましたが、母にしても父にしても、自分の子供に対してはいくつになっても気に書けます。特に、病弱な子供に対しては、全く自然に、当然のようにして苦労を引き受けてくれます。そのようにして、子供を育てるということはどういうことかを、無言のうちに教えてくれるのだと思います。


 このように、家族の関係、つまり夫婦、親子、兄弟姉妹、といった関係は、まことに自然な独特のつながりです。例えば、ご夫婦の場合でも、一方が何かの理由で先立たれても、なくなった連れ合いとの関係は、生きている時よりもいっそう深い関わりがそこにあるということも、よく耳にします。その意味では、家族というものは、会社とか地域社会といった関係とは異なる独特な繋がりがあります。


(ここまでで急用で中断します。つづきは次回に)