「杉之原壽一先生の人と業績への回想」(上)(雑誌『人権と部落問題』2010年2月特別号への寄稿)


宮崎潤二さんの作品「ニュージーランド:ウエリントン国会議事堂・蜂の巣堂とも呼ばれている」


このブログで昨年(2011年)7月19日、掲載誌『人権と部落問題』(2010年2月特別号)のスキャンをUPいたしましたが、これの草稿が残っていますので、ここで上下2回に分けて掲載して置きます。


私にとりまして「杉の原寿一先生」は、最も身近なところで長期間にわたってご指導をいただいた恩師でもあります。真に不十分な追悼文ですが、改めてここに深い感謝のおもいをこめて収めさせていただきます。


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    杉之原寿一先生の人と業績への回想(上)


      雑誌『人権と部落問題』2010年2月特別号に寄稿


             鳥 飼 慶 陽
                          
                        
 昨年(2009年)7月15日朝4時ごろ、容態の異常に気付かれた奥様がすぐに医師を迎えられたが、先生は5時5分ご家族の見守られるなか、静かに息を引きとり、その生涯を終えられた。長く住み慣れた先生のお宅は、京都は修学院の閑静な住宅街の一角にある。


 先生は、数年前から急速に視力を失われ、読書も執筆も困難となっていた。特別の用事もないのに時たまお電話をすると、奥様がいつもご親切に、二階の先生の書斎に電話をつないでくださり、神戸の近況を報告したり、取り留めのない話をして、元気なお声を確かめていた。


 愛煙家の先生は、近所の煙草屋までの散歩をされていたようであるが、先生との信交の深かった部落問題研究所の木全久子さんのお話では、京都の研究所へは2007年12月末にお顔を出されたのを最後に、定期の資料収集もストップして、以後お目にかかることがなかったと言われる。


 視力を失われて以後、奥様の転倒事故などあって、ご夫妻とも入退院を繰り返しておられたが、ご子息の献身的なサポートで、一階に部屋を増築し、落ち着いたご養生を始められた矢先のことであった。


         膨大な先生の蔵書・資料のこと

 
 ところで、視力の衰えが進みその回復が難しいことを自覚された先生は、自宅の書斎のほかに二階の二つの部屋と一階に増設された書庫、さらに加えて離れにも大きなプレハブを建てて、整然と保存・整理されてきた膨大な蔵書・資料の、後世への移管先を探しておられた。
 

 もとより先生にとって、失明のことは想定外であり、生きているうちにこれら蔵書・資料を手離す事など考えられもしなかった事態であった。しかし先生は、奥様ともご相談の上、すべての蔵書・資料を一括して、兵庫県人権啓発協会に寄贈する決断をされ、協会との交渉を私に依頼された。そのお電話をいただいたのは2008年12月4日のことである。
 

 すぐに協会へ打診を計ったところ、かつて兵庫人権問題研究所が神戸市中央区元町7丁目に三階建ての所屋を活動拠点にしていた場所を離れる直前(2001年1月)、大切にしてきた研究所の所蔵図書・資料の殆どすべてを啓発協会へ寄贈・移管したときお世話になった川渕管理部長(当時)が在職中という幸運にも恵まれ、所蔵図書・資料の一括移管の御意向が、協会に受け容れられることになった。研究所の蔵書・資料を移管するおりに、当時の協会責任者の方から「研究所のものも有難いが、将来是非杉之原先生の蔵書・資料も当協会へ寄贈して貰えば、なお一層有難い」との意向が出されていた経緯もあったのであるが、双方の合意が整うことになった。


 分量があまりに大量のため協会の受け容れ準備に少し時間を要したが、2009年3月10日にはその作業がすべて完了した。運送時の見積もりではダンボール500箱ということであったが、実際は400箱あまりとなったものの、研究所の移管作業のときと同じく、協会の方ですべての作業手続きを進めていただき、大変有難いことであった。
 

 これらの蔵書・資料を手離される先生のご心境のほどは計り知れないが、今回の件では、先生亡き後も奥様やご家族の方から、先生が安堵の思いを洩らしておられたことを御伝えいただき、大げさかも知れないが、気になっていたことだけに一仕事できたという特別の感慨がある。
 

 移管された蔵書・資料は今、この財団法人兵庫人権啓発協会において、丁寧に分類・整理されつつあり、すでに蔵書類のリストもできている。当協会には大量の文献・資料が収集され、県民に公開されているが、兵庫人権問題研究所の関係図書・資料とともに、このたびの「杉之原寿一所蔵図書・資料」が加わることによって、全国的規模の貴重な部落問題関係図書・資料の所在する場所の一つとして、今後広く活用されることになる。
 
 
 先生の略歴や全業績などに関しては、1998年3月出版の『杉之原寿一部落問題著作集』第20巻「部落問題に関する理論研究」所収の「補論」として「杉之原寿一の人と業績」を収めることができたので、その時点までのことは、是非それをご一読いただくとして、本稿では、先生の幅広い研究業績の内の、特に「部落問題研究」分野の、分けても1974年4月創立の「神戸部落問題研究所」の設立準備の頃から、先生のもとで身近に接することを許された者のひとりとして、「先生との個人的な思い出」のようなことを書き記して、本誌「追悼特集」の寄稿依頼にお応えしたいとおもう。おぼつかなくも忘れかけた記憶を辿りながら記そうとするこの「回想」が、先生の打ち込まれた学問と実践的働きのいぶきを、いくらかでも未来に受け継ぐことに役立てば、と願っている。


         喫茶「琥珀」での大事な打合せ


 周知のとおり先生は、戦時下(1943年)京都帝国大学文学部哲学科で学ばれすぐ学徒動員で徴兵兵役、幸い国内にあって敗戦となる。戦後(1947年)哲学科を卒業後「京都帝国大学人文科学研究所」へ、そして1951年からは神戸大学文理学部講師に就かれて、私たちの神戸との関りを開始される。


 その頃、『テンニエス』『南太平洋』『現代批判の社会学』といった著・編著をはじめ翻訳でもルソーやマンハイムの著作、岩波文庫に収められ広く知られているテンニエスゲマインシャフトゲゼルシャフト』の名訳、さらにはフランス百科全書派研究などの多彩なお仕事の傍ら、先生は翌1952年末には、神戸市長田区の番町青年団などの協力を得て、「未解放部落」(学術用語として用いられてきた用語であるが、当時の厳しい差別の現実そのものを表現する言葉として違和感がなかった)番町の実態調査を試みられた。先生はまだこの時30歳前である。


 これを皮切りに部落問題研究、特に現状調査の科学的研究に打ち込まれ、次々と開拓的な独自の調査方法を確立しながら研究成果を発表して行かれた。
 神戸でも1950年代後半から漸く部落問題解決の機運も高まり、60年代に入ると神戸の部落解放運動も組織的な展開を見せはじめる。周知のごとく1969年には「同和対策事業特別措置法」の施行もあり、住民の強い要求に応えて神戸市は、1971年7月に初めて本格的な市内同和地区の全世帯調査を実施した。


 この調査は後の神戸市の同和行政の起点ともなった歴史的な調査であったが、この調査に当たって調査項目や実施方法などの実質的な重要な打合せのできたことは、私たちにとって最も大きな出来事であった。先生は調査の実施に当たっても、連夜地元説明会などにも顔を出して、大変なご苦労をされた。当然の事ながら調査結果の分析にも、先生は中心的な役割を担われたのである。


 1972年には神戸市同和対策協議会が設置され、ほぼ一年間にわたる「長期計画」の策定作業をつみかさね、1973年8月にはそれを仕上げるのであるが、この策定作業でも、同協議会「会長代理」の座を担っての献身的な貢献ぶりは真に大きく、先生の政策立案者としてのずば抜けた能力もまたこのとき存分に発揮された。


 すでに当時、同和対策の法的措置の実施にともなう全国的規模での運動・行政・教育全般にわたる不正・不法による混乱状態が表面化していたが、その中にあって神戸では、適切な手続きをふんだ科学的な総合調査をふまえて、既述のような綿密な「長期計画」が策定できたことは、特筆すべきことであった。それは、市内全地区の個別的な年次計画をふくむ、環境整備・福祉増進・生活向上・教育人権等の総合的な「神戸市同和対策事業長期計画」であって、いま見直しても画期的なものである。


 この「長期計画」の策定過程のなかで、関係者のなかから求められたのは行政・運動・教育などから独立した民間の部落問題研究機関の必要性であった。
 先生は、実態調査の実施時とおなじく、民間研究機関設立への私たちの提起に対して意欲的に対応され、神戸市からの研究受託の見通しも整い、1974年4月の「神戸部落問題研究所」創立のときを迎えたのである。もちろん理事長の重責を担われたのは杉之原寿一先生であった。
 本格的な神戸市の実態調査から研究所設立までの、先生を囲むいくたびかの重要な打ち合わせ場所は、三宮駅山側角にあった先生お気に入りの喫茶「琥珀」であった。惜しいことに大震災によりあの懐かしい「琥珀」も今はない。


        研究所創立時の研究者の方々


 「理事長に神戸大学教授・杉之原寿一氏の就任」という幸いな船出となった「神戸部落問題研究所」は、創立時から有力な研究者の方々が手弁当で熱心に参集された。
 因みにここに順不同で、肩書きや敬称も略してあげてみると、杉之原寿一・斉藤浩志・杉尾敏明・小林末夫・阿部眞琴・落合重信・前圭一・長谷川善計・大塚秀之・水野武・内田将志・出口俊一・馬原鉄男・鈴木良・塚田孝・布川弘・津高正文・井上英之・村上博光・足立雅子・寺田政幸・徳永高志など数多くの方々のお名前がすぐに浮かんでくる。すでに地道な調査・研究活動に打ち込んでおられたお歴々の方々であるが、それぞれ専門部会を設けて、研究課題に共同して取り組まれた。


 ところが設立された年の秋、あろうことか地元兵庫県下の但馬地方においてあの「八鹿・朝来集団暴力事件」という未曾有の大事件を経験した。この事態を受けて研究所は、地元神戸の行政・運動・教育の基本方向−問題解決に関る各分野の固有の領域の区別と関係などの明確化―を明晰判明にする視点を新しく提示するとともに、事件そのものの真実と真相を全国的に発信し、独立した民間研究機関としての使命を発揮しながら、次々と積極的な問題提起を総力挙げて展開していった。


 創立して間もない「神戸部落問題研究所」の、このときの自由かつ新鮮・大胆な働きが、全国からの注目と大きな期待を集めることになるのである。創立当初は季刊雑誌であった「神戸の部落問題」もすぐ「月刊部落問題」に改め、会員・読者も急速に全国に広がっていった。


 創立後すぐ斬新で分かり易い学習資料「市民学習シリーズ」の刊行も始まり、第1巻となった先生の『新しい部落問題』(後に英訳版刊行)を皮切りに、数多くのヒット作品が登場した。このシリーズは広く読者を獲得し、次々と積み重ねて結局20数巻にまでにもなった。とりわけこの第1巻は1980年に「新版」、1989年に「改訂版」、そして1994年に「改訂新版」を刊行し、毎年1万部を超える読者を獲得した(改訂新版の英訳版は部落問題研究所で刊行)。また「市民学習シリーズ」とは別に「ヒューマン・ブックレット」の新シリーズも企画し、これも多彩な企画内容で30巻ほど刊行され、人々に幅広く愛読された。


 国際都市として世界に開かれた「神戸」を冠した「神戸部落問題研究所」の名称は惜しまれつつも、社団法人の認可の関係で「兵庫部落問題研究所」と改称し、歴史の進展に伴いさらに「兵庫人権問題研究所」へと名前を代えて現在に至っている。
 以下、さらに断章風に先生の労作を纏めた大作『杉之原寿一部落問題著作集』全20巻の刊行経過を柱に、先生の足跡などを回想してみたい。


      「部落問題著作集」第1期全8巻の刊行

 いま本誌読者がすぐに思いこされるのは、部落問題研究所で1983年に刊行された550頁の上製本『現代部落差別の研究』であろう。冒頭に収められた「部落差別論」は神戸の研究所創立後すぐ書き始められた記念碑的労作であるが、1970年代から80年代初めの部落問題をめぐるあの激動のなかでの、先生ならではの学術的論文集であった。


 このころ先生は神戸大学在任中で、当時大学院生の学生たち(現在は著名な教授職の方々であるが)と共に兵庫県下はもとより県外の実態調査に出向き、地元の人々や行政関係者と討論を重ねながら調査内容を練り上げ、当時はまだ一部手集計の手間のかかるものもあって、先生は度々大学の社会調査室で寝袋に包まって、泊り込みの作業をしておられた。


 こうした部落差別に関わる実態や意識の実証的研究に裏打ちされた先生の「現状研究」「解放理論」「同和行政論」は、「同和対策事業特別措置法」から「地域改善対策事業特別措置法」へと新しい展開を見せる1980年代初頭の重要な時期と重なり、現場で模索する人々の確かな方向性を示す重要な指針となり、多くの人々の関心の的となった。


 ちょうど先生の還暦の時であるが、この労作は翌年(1984年)、野呂栄太郎没後50周年の「第9回野呂栄太郎賞」を受賞することになり、大きく話題を呼ぶことになるのである。


 ほぼ時を同じくして、先生の長年の開拓的な学術的労作を、纏まった著作集のかたちとして刊行する企画がにつまり、『杉之原寿一部落問題著作集』第Ⅰ期分全8巻の刊行が開始されていく。


 第Ⅰ期の刊行案内には、黒田了一・磯村英一・岡映・鈴木二郎・北川隆吉・藤谷俊雄の各氏の顔写真と友情あふれる推薦の言葉を収めることができた。どの方々もいまは懐かしい方々である。


 第Ⅰ期全8巻の最初の第1巻『部落問題の理論研究』は、先の『現代部落差別の研究』を内容的に補充するものであったが、およそ3年間(1985年まで)を掛けて第8巻『戦後同和行政の研究』までのすべてを完成させることができた。先生が神戸大学を定年退官されるのは完成の翌年(1986年)のことである。


 この受賞のときは、社団法人兵庫部落問題研究所の創立10周年(1984年)と重なり、創立5周年の祝賀のときに倍して、全国から関係者が多く神戸に駆けつけていただいた。 

 (つづく)