「杉之原寿一先生の人と業績への回想」(下)(雑誌『人権と部落問題』2010年2月特別号への寄稿)


宮崎潤二さんの作品「雨上がりのイギリス人移民開拓記念館:ニュージーランドクライストチャーチ市にて」





     杉之原寿一先生の人と業績への回想(下)


      雑誌『人権と部落問題』2010年2月特別号に寄稿


              鳥 飼 慶 陽


    (前回のつづき)



        「部落問題著作集」第Ⅱ期(全5巻)


 あらためて確認するまでもないことであるが、1980年代半ばからは、同和対策事業の大胆な「見直し」と「完了・終結」に向けた方向性を明示する、重要な諸課題に直面していた。先生のこの当時の多くの論稿は、専らそれに応える「新しい冒険的な試論」ばかりであった。


 特に、神戸における「公営住宅の家賃適正化の取り組み」などの具体的な検討吟味の作業は刺激的なもので、「労働者協同組合」「教育文化協同組合」など新たな実験が開始されていくときでもあったが、先生の著作や講演は、運動・行政・教育それぞれの現場の人々にとってのみでなく、国の基本的な方向性を決定する上でも、重要な貢献を果たすものであった。


 先生は神戸大学退官(1986年)のあと、翌年に鹿児島大学法文学部の非常勤講師を受けられた以外は大学関係のお仕事につかれることはなく、1989年に部落問題研究所の理事長を兼務しながら、一層精力的に部落問題研究と講演活動に打ち込まれた。


 それらの成果は、退官後1991年までの5年間だけみても、例えば『部落問題用語解説(新版)』『部落問題学習資料(上中下)』『新しい部落問題(改定版)』『図説・部落問題をめぐる意識の実態』『部落差別はいま』『同和行政はいま』『国民融合への道』『現代部落解放運動の理論』『部落問題の解決』『部落問題学習資料』など、矢継ぎ早に新著を量産された。


 そうした中での『著作集』第Ⅱ期分の刊行であったが、第9巻から第13巻まで全5巻(『現代同和行政の研究』『意識と啓発の実証研究』(正続)『部落の現状調査研究』(正続)は、1990年からほぼ2年掛けて完成した。  


      『部落問題著作集』第Ⅲ期(全7巻)の刊行


 神戸においても「21世紀に部落差別を持ち越さない」という合言葉が現実のこととして確認されるなか、研究所では1989年5月、先生を団長とする「アイヌ民族伝統文化調査団」を組織し、道内各地のアイヌの人々との交流を深める得難い経験をした。そしてその翌年の正月にも、今度は南の「沖縄平和の旅」を企画実施し、そのときも先生が団長を担われた。


 第Ⅱ期の刊行を終えた2年後(1994年)には、研究所「創立20周年記念」の年を迎え、研究所近くの「ホテル・シェレナ」において盛大な祝宴を開いた。これにも全国から各方面の関係者が参会され、創立5周年や10周年の祝賀のときとは違う、さらに大きな盛り上がりを見せた。あのとき先生は「こうした祝い事はこれが最後だね」と笑みをたたえて語られたことを、いま思い起こす。


 祝賀を終えて間もない1995年の正月、休日を利用して恒例の「新年特別研究会」を開催した。研究会を終え、長田にある北京料理店「八仙閣」で新年の懇親を済ませた翌朝、あの「阪神淡路大震災」を経験することになったのである。「八仙閣」は全壊となり、私たちがこの店の最後の客となった。先の「ホテル・シェレナ」も全壊・廃業となった。


 幸いにも私たちの研究所の所屋は全壊を免れ、多くの方々の温かい支援を受けて研究活動を継続することができたので、続く第Ⅲ期『著作集』(第14巻から第20巻までの全7巻)の刊行も、予定通り1997年5月には刊行を開始できた。


 この第Ⅲ期の作品は、まさに「最終段階を迎えた部落問題」を説得的に浮き彫りにして、神戸市の最後の調査「1991年調査」及び総務庁の最後の調査「1993年調査」の分析の上に、「同和対策事業」や「部落解放理論」の歴史的総括が試みられ、1998年3月には最終巻「部落問題の理論的研究」を仕上げることができた。こうして『杉之原寿一部落問題著作集』全20巻という画期的な労作の完成を見たのである。


 全巻平均500頁という大部な箱入り上製本で、本体価格が15万円近くにもなったが、すべてが完成したとき、喜びのあまり全巻を所屋の屋上にずらりと並べて、印刷所の方たちと記念の写真を撮ったりしたものである。先生にとっては、これは全著作の中の部落問題研究関係の、しかもそこから精選した「選集」であるとはいえ、私たちにとってこれの完成は、まさに感動ものであった。
 地元「神戸新聞」なども「全20巻の労作完結」と大きく先生のお仕事を写真入で取り上げ、このときも多くの関係者が、三宮の馴染みの四川料理店「マンダリンパレス」に集って、その喜びを分かち合うことができた。


            歴史的使命を果たして


 先生は『著作集』第Ⅲ期刊行の途中、体調を崩された。日ごろ健康そのものであった先生が、時折検査入院を必要とする難しいご病気であった。「できれば21世紀まで生きてみたい」などと弱気なことを、先生は密かに洩らされることもあった。


 このとき部落問題解決のための特別措置は1997年3月末をもって終了することを予想し、神戸市もそれに歩調を合わせて「同和行政の終結」へと進んでいた。結果的には法的措置は更に5年継続され2002年3月末までとなったのであるが。


 こうした歴史的経過をふまえ、研究所は2001年2月末には、長く住み慣れた神戸市中央区の三階建ての所屋を閉じる決断を行い、長田区の兵庫人権交流センターに移ったのである。本稿の冒頭にもふれたように、創立以来収集してきた大切な図書・資料をすべて、兵庫県人権啓発協会へ寄贈移管したのは、2001年1月のことである。


 人権交流センターに移転した4月の通常総会では、定款変更を行って名称を「兵庫人権問題研究所」に改め、機関誌「月刊部落問題」も翌2002年1月号から装いも新に「月刊人権問題」に改題した。


 またご記憶の方もあると思われるが、2002年4月に京都の部落問題研究所の理事長を退任された折に、「杉之原寿一先生の労に謝する会」が「からすま京都ホテル」で持たれ、杉之原先生ご夫妻をお迎えしての盛大な集いがあった。このとき先生は80歳をお迎えの頃である。


  最後の労作『神戸市における同和行政の歩みと同和地区の実態の変化』


 研究所創立以来、毎年神戸市から受託してきた調査研究活動も、2003年度をもって当初の研究計画をすべてやり終え、毎年夏期6週間、午前午後の12講座を開講してきた「部落問題研修講座」(2002年度から「人権問題研修講座」)もこの年度をもって終了させた。


 しかし先生には、どうしてもやり遂げて頂かねばならない大きなお仕事が残されていた。それは毎年積み重ねてきた「神戸市における同和行政の歩みと同和地区の実態の変化」に関する総括の仕事である。関連する研究成果物は膨大であり、地域の歴史をはじめ運動・行政・教育にわたる歴史資料も大量であるが、せめて先生の担当分野だけでも、著作として仕上げていただく必要があったのである。


 先生はしかし、私たちの期待をすでに先取りして着々と準備をしておられ、2003年4月には、B5版586頁の『神戸市における同和行政の歩みと同和地区の実態の変化』として見事に仕上げられた。この著作は、先生が長年ホームグラウンドとして調査研究されてこられた客観的な資料にもとづいて取りまとめられたもので、巻末の「資料編」には神戸市の「同和対策関係条例・規則等目録、同和地区関係文献資料目録、同和対策関係文献資料目録」と「神戸市同和行政史年表」も収められた大変便利なものである。


 私たちにとってこの1冊は、部落問題の解決に関った神戸の関係者すべてにとって、最後に残して下さった先生からの大きな贈り物である。
 本書は兵庫人権問題研究所刊として出版したが、経費のすべてを先生の持ち出しで完成された。しかもこの著作は、多くの関係者に著者からの贈呈本として届けられた。私たちはこのときも感謝をこめて、馴染みの「マンダリンパレス」において、完成のお祝いをすることができた。


      兵庫人権問題研究所理事長の退任(2005年3月末)
 

 愈々先生の体調も勝れず、神戸まで足を運ばれるのも難しくなる。元町の事務所においても、神戸駅から事務所まで、そして事務所の玄関から2階にのぼる階段も一休みが必要であったが、人権交流センターに移ってからはいっそう苦しそうにしておられた。それでも医師の許可を得て、神戸まで足を運んでいただいていた。


 2004年6月、先生から「社団法人兵庫人権問題研究所の解散について」という提示を受ける時を迎えた。それはすでに2000年段階から、毎月の運営委員会や理事会などで、重ね重ね思案を重ねてきた事案であった。


 それは「2005年4月末を以って社団法人としての研究所を解散する。解散後は、兵庫人権交流センター内に「研究調査室」を設置し、研究所の残務処理並びに研究会は継続する。そして研究所の付属機関である「NPOまちづくり神戸」は独立して活動を継続する。「解散レセプション」は行わず、法人解散上の会計処理を行い『研究所の30年史』を纏める経費に当てる」という提案であった。そして全国の会員・読者に親しまれた『月刊人権問題』も、2005年3月号(通観339号)をもって終刊することを決断した。


 しかし2005年の通常総会を準備する直前の理事会における議決は、「研究所の解散」ではなく「新たな体制を整えて継続する」ことになった。
 先生は予定通り2005年4月末をもって、理事長の職務を退任され、裏方の私もこのとき先生とともに事務局長を退任した。すでに2000年度より嘱託、2004年度より自由の身であった。
 

 退任されたあと先生は、2006年1月4日、研究所恒例の新年研究会に出席されお話をされた。これが最後ではないかと予測して、密かにお声を録音していたが、話の内容は兵庫県における戦後の複雑な部落解放運動に関するもので、「金子念阿」のことなど取り上げて「運動と行政」の当時の奇妙な関係を解きほぐす興味深いお話であった。これが神戸の研究所の関係者にとって先生との最後の出合いとなった。


            尽きない思い出ばかり
 

 先生は、部落問題関連のお仕事の他に、日本社会学評議員常務理事や同評議員日本学術会議会員や文部省学術審議会専門委員、神戸大学文学部の部長や神戸大学評議員など、多くの役柄を担ってこられた。


 そうした役柄を引き受けながら、神戸の小さな研究所に足を運び、取り留めのない私たちの問いかけにも興味を示し、研究会や会議の後の「別の会議」に付き合われ、遅い電車で京都・修学院の自宅まで帰っていかれた。


 全国から相次ぐ講演会や学習会の依頼にも、先生は貴重な時間をさいて、快く応じて、自由な意見交換を楽しまれた。そして地域から次々と難題が降りかかるなか、先生はいつもそれに熱心に耳を傾け、全身全霊でお応えになる応答者であられた。研究者である先生には、運動・行政・教育など幅広い分野に多くのフアンがついていた。


 研究所の苦しい財政運営にも、いつも慌てず「遠望楽観」、私たちは先生がおられるというだけで、安心しながら仕事ができた。先生の仕事ぶりも敬服するばかりであったが、そのお人柄と学問的な情熱の意気に感じて、先生のもとで仕事に打ち込めたことは、大満足である。「労働牧師」の実験をゴム工場ではじめながら、その途上でこういう人生が待っていたとは、予想もつかなかったことであったが、先生のもとで過ごせた日々は、何の悔いるところはない。


 先生のお誘いに乗って、あつかましくも修学院のお宅にまで伺い、奥様のあたたかいおもてなしを受け、度々泊めても頂いた。私が牧師であるからであろうか、聖書のことばに「貧しき者は幸いなり」とあるが、その意味合いが良く分からない、と真面目なお顔で尋ねられて、おかしなやりとりをしたり、私からはまた「先生の差別論は、さらに積極的な解放論を背景にした差別論を展開されれば、一層説得的ですね」などと、少し批判めいたこと申上げると、「それが自分にはいま難しいんだ」と、これもまた学問的誠実そのままに、真剣なお顔で語られたりしたことなど、先生のご自宅での深夜まで尽きる事のない雑談もまた、私の楽しみの一つであった。先生は、学者としての真理真実に開かれた頑固さを崩さず、厳密な批判的な論争を重ねられたが、いつも質問者に対して聞く耳を持つ「開かれた対話的関係」を大切にしてこられたお方であった。


 先生が大きなお仕事をなし終えてその生涯を閉じられた昨年の夏は、百歳近かった私の母も、時を同じくその歩みを終えていたが、ある夜夢のなかに、先生が穏やかなお顔で微笑み、小鳥と遊んでおられる、とても不思議な場面が登場した。母の夢ではなく、先生の夢を見るというのもまた面白いことであるが、杉之原寿一先生の「回想」は、いつまでも尽きる事はないようである。 


 付記


 個人的な研究課題に関わることであるが、研究所の責任を解かれてから、専ら「賀川豊彦」関連の学びを楽しんでいる。先生の所蔵図書・資料のなかに、賀川の著書はもとより、彼の活動拠点であった神戸市内の特に私自身の生活の場ともなった「葺合新川」と「長田番町」に関連するものも多く、賀川豊彦関連の3冊目となった『賀川豊彦の贈りもの』を完成できたのもそれらのおかげである。生前この拙い著作を届けて、過分のお褒めをいただいたのも有難かった。


 神戸の新しい賀川記念館は昨年(2009年)12月に完成し、本年4月「賀川ミュージアム」もオープンするので、先生の蔵書・資料の一切が地元神戸にあることは、賀川関係者にとってもたいへん有難いことである。


 現在、研究所とは疎遠になっているが、神戸人権交流協議会の「安心・しあわせネットワーク」「NPOまちづくり神戸」や「高齢者生協」など昔ながらの交流をはじめ、神戸市外国語大学甲南女子大学での自由な講義や青春時代から毎月続く「神戸自立学校」での滝沢・延原両先生の著作を学ぶ読書会、そしてただ今賀川関係の学習など、相も変らぬモグラ暮らしを満喫している。先生との40年ほどの歩みがあって、いまがあることを、あらためて思い巡らしつつ、先生への深い謝意をこめて、近況報告を添えて付記とした。


               (とりがい けいよう/番町出合いの家牧師)