「宗教と部落問題ーキリスト者として」(上)(1994年、名古屋・人権問題研究所)


今回掲載する講演記録「宗教と部落問題ーキリスト者として」は、1994年9月27日に、名古屋にある「人権問題研究所」の主催によるもので、当研究所の『会報』第28号に掲載されたものです。


これも当時の記録としてUPして置きます。まず、今回は前半だけです。


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      宗教と部落問題―キリスト者として                             

                
         名古屋・人権問題研究所 1994年9月27日


               はじめに
 

 皆様は、日本で最初の「人権問題研究所」を設立されて、地道に活動を続けておられますが、ご紹介いただきましたように私も、神戸で同じように民間の研究機関で「部落問題研究」を中心にした仕事をしています。もう20年余りの時を刻んできました。


 今晩与えられましたテーマは「宗教と部落問題」ということです。そして事務局の方からは、「聞くところによれば牧師らしい」から「キリスト者として」の関わりを話すように求められています。ですから、こんな副題が加えられています。


 確かに私は「日本キリスト教団」というプロテスタント(新教)の「牧師」のひとりですし、自分が「牧師であること」を忘れることはありません。しかし私自身は、いわゆる普通の教会の牧師の仕事をしているわけではありません。現在の職業は、今申しましたように研究所の一職員で、事務局長という職務を務めています。


 私たちの場合、生活している家を1968年春に「出合いの家」と名付けて、教団・教区もこれを正式に公認していているわけです。世界にも例を見ない、ひとりの信徒もいないふたりの牧師だけの教会(家内は関西学院の、私は同志社のそれぞれ神学部で学んで牧師になった)として、現在に至っています。家内は、ゴム工場の貼工をしたり、解放運動の新しい発展のなかから生れた「神戸ワーカーズコープ」のホームヘルパーとして働いています。いずれも「牧師」を職業としているのではありません。「職業牧師」ではなく、名付けて「在家労働牧師」をしています。
 そんな中で、学び経験してきました歩みをとおして、少しお話をしたいと思います。

 
 「宗教と部落問題」という主題については、いろんな接近の方法があります。
 今晩は研究会ですが、全く研究的でないお話になります。貧しい個人的な経験を申し上げるだけになります。主に3点にしぼってお話します。


 第一には、部落問題との直接的な出合い以前のことに関わりますが、「宗教と現代、そして私」といったことについて考えてみます。これは、私自身の青春時代にまでさかのぼりますが、ことがらそのものは現代の、いや現在の私自身のことでもあるわけです。


 そして、第二には、実際に日常的に、住民のひとりとして部落問題の解決の取り組みに参加して今日に至る、広い意味での住民運動、つまり「部落解放運動との出合い」のなかから学んだことに触れます。


 最後に第三に、自分の仕事場でもあります「部落問題研究との出合い」のなかから学んでいることをお話しして見たいのです。


 皆さんは、現在の宗教界で部落問題をめぐってどのような新しい問題が引き起こされているのかについては、いくらかことは御存じかと思います。


 お手元に部落解放同盟という団体の最近の機関紙「解放新聞」のコピーをお渡しいたしました。これは三重県大安町で起きたという住職の方の「差別発言」問題の記事です。これについては、あとで少し触れるだけで特別に取り上げる時間はありませんが、今晩は「宗教と部落問題」という主題を念頭において、折に触れてこうした類の問題にも言及することにいたします。


 そして「おわりに」あらためて、新しい時代における宗教の価値、これからの展望などについて、いま思うところをお話して結びとしたいと思います。 



          1 「宗教と現代、そして私」


 ところで先ず、部落問題と日常的に関わり始める直接的な契機ともなった事柄について申し上げたいと思います。私達の場合、部落問題との関わりは、事柄の順序としては二次的・結果的なことでした。


 先程も申しましたが、正式に「牧師」の資格を得ると同時に「職業牧師」の道を離れることになりました。「牧師」でメシを食わないで、普通の労働で普通の生活をするという生き方を選んだ、ということです。「牧師として生きる」ことは、特別のことではなく、文字どおり「ただの人」として、「信じて生きる」こと、「喜んで生きる」ということと、別のことではありませんでした。


 私は1958年に大学に入学した「60年アンポ時代」の学生です。
 政治的社会的な方向性を問い直す激動の中で、牧師をめざす一キリスト者として、入学間もない頃、私にとって根本的な「大きな厚い壁」にぶち当たりました。


 その「大きな厚い壁」というのは、キリスト教がまだ当時十分に清算できていなかった根本問題の一つであった「キリスト教絶対主義」をどのようにして抜け出ることが可能なのか、何処の問題の所在があって、どう解いたらよいのか、キリスト教にまとわりつくどこか独りよがりな独善性から自由になりたい、その解決の道は探し当てなければ、牧師になるのも、ひとりのキリスト者としても、喜んで生きることにはならない、というような私にとって大変「大きな厚い壁」にぶち当たっていました。


 現在でこそ、世界の先端はグローバルな「対話の時代」を迎えてきましたけれども、長い間、キリスト教は不遜にも、独り善がりな「絶対主義」に疑いを挟もうとしませんでした。「キリスト教以外に真理はない」「教会の壁の外では救いはない」という見方で、カトリックプロテスタントも一致して20世紀の後半を迎えていました。


 しかし幸いなことに、丁度われわれの学生時代のころから、この「独善的なキリスト教絶対主義」をどのように克服して「対話」の道に入ることができるのかということが、世界的な関心事になってきました。カトリックでは、第二ヴァチカン公会議が開かれて、大きな変革がはじまり、プロテスタントを中心としたWCCなどの世界教会運動などでも、「対話」の動きが活発化していました。


 当時、P・ティリッヒとかH・クレーマーといった著名な学者たちが来日して、我々の大学でも講演をしたり講義を行うなどして、特に「諸宗教間の対話」の重要性を訴えていました。しかし、これが本当に実りあるものになるためには、これまでのキリスト教自体が新しくなること、「宗教改革」を徹底して「宗教革命」に目覚めるところまで前進しなければならないものでした。


 ところが、すでに日本において、1950年の段階で、『仏教とキリスト教』という著作をとおして「キリスト教と仏教の対話」をはじめた先達のひとりがおられたのです。


 その方は、残念ながら私の学ぶ同志社大学神学部の教授ではありませんでしたが、当時も九州大学で哲学を講じていた滝沢克己というお方です。私は最初、この方の著作のひとつである『カール・バルト研究』という、戦前の私が生まれた翌年1941年に書かれた書物に、京都百万遍にあった古本屋で出会ったのですが、この滝沢先生との出合いが、私の学生時代の学びを息づかせ、私の抱え込んだ「大きな厚い壁」から、解き放たれることになったのです。


 ここでは、私にとって「イエス・キリスト」の見方が一新された、という喜ばしい自覚と経験に浴することができたということだけを申し上げますが、滝沢の諸著作(『カール・バルト・研究』や先に挙げた『仏教とキリスト教』、『西田哲学の根本問題』や『夏目漱石』『デカルト省察録』研究』など)の影響に加えて、「教会」を「出合いの家」とみなす見方も、同じく私の学生時代に獲得した大事なものでした。


 ドイツの戦後復興に大きな役割を果たした「クリスチャン・アカデミー運動」というものがその頃、日本に取り入れられて、京都を拠点にして「話し合い運動」が模索されていたのです。


 卒業と同時に結婚して、滋賀県の琵琶湖畔の小さな農村教会で生活をはじめました。この教会は、学生時代実習に来ていた時に、牧師さんが忽然と亡くなり、求められるままにそこに住み込み、まだ神学生をしながら毎週の説教をしながら、京都まで通学して卒業したわけです。


 「出合いの家」の模索を進めながら「新しい礼拝の在り方」などの実験をはじめていましたが、ふたりの子供を授かって生活も困難になって、神戸に「出稼ぎ」に出ることになりました。宿っていた夢は、小さな田舎の教会で生きることでしたから、いずれまた田舎の教会に戻る筈でしたから、これはあくまでも「出稼ぎ」の積りでした。


 神戸の「出稼ぎ」の場所は、当時「葺合区」という区がありまして、「葺合新川」とか「貧民窟新川」などと呼ばれて、日本の「都市下層社会」の典型的な地域として、世界的に有名になった地域でした。


 御存じの方もあるかもしれませんが、この場所は、明治末からここで生活をして幅広い社会運動を展開した「賀川豊彦」の活動拠点でした。私が招かれた教会も、彼が創立した教会で、彼の活動に共鳴した人々で営々とセツルメント活動を続けてきた、日本の教会の中では大変ユニークな教会でした。


 賀川豊彦は1960年にその生涯を閉じていましたが、没後3年後に、この場所に「賀川記念館」が完成し、その3年後の1966年4月に、その中にある教会に赴任したのです。


 そこでの2年間は、私たちにとって、具体的な新しい歩みを踏み出すための大事なウォームアップの時でした。新しい歩みといいますのは、初めに申しましたように「職業的な牧師」を辞退して、普通の生活をする、敢えてそれを「牧師」というのであれば「在家労働牧師」となって、自活して歩むというひとつの実験でした。


 こうした実験は、既に先輩がいて、土方をやりながら「自由かつ真剣に」生きている延原時行という面白い牧師がいました。同志社時代の3年ほど上級生の方ですが、この人の呼びかけで、牧師仲間が集まって「牧師労働ゼミナール」などを試みたりいたしました。


 1週間あまりの合宿生活で、毎日尼崎の零細工場に働きに出て、夜は学びと語らいを楽しむ共同生活をいたしました。これは次の年も継続して開かれました。


(私たちは学生時代にも、夏休みに一か月間、大阪で「学生労働ゼミナール」が開かれて、同じような経験をいたしました。このとき出合った彼女が家内でありますが)。


 西田幾多郎の有名な言葉で「問題の対象を新たにすることは、直ちに思惟を新たにすることではない」というのがありますが、これは私達にとって大事なことでした。


 「新しい酒は、新しい皮袋に」という言葉があります。「新しい酒」に出合えば、思いがけないかたちで、そこからまた新しい経験へと促されていきます。


 私たちの場合は、それが「職業牧師」の生き方を辞退して、新しい実験へと旅立たせました。もちろん「職業牧師」の生き方がすべて間違いだとは、全然思っていません。私たちは別の形を選んだというだけです。


 先日も、神学生時代のクラス会をもちましたが、それぞれ全国で、また国外にあって喜んで苦労をしています。また、当然のことですが、同じ神学部で学んだ友達の中にも「牧師」にならないで一般の企業で働いているものもいます。


 「職業牧師」でないということは「牧師を止めた」と普通は見られます。当時もいわれたものです。「牧師が一人へって、ゴム工員が一人増えただけのことだ」と。


 人々の評価、世間の見方はどうでもいいことです。大事なことは、自分が自分らしく無理をしないで、大地に足を踏みしめて、生きられているかどうかだと思います。


 いずれにしてもしかし、「牧師」だとか「キリスト者」だとか言い触らすことではありません。それは、何かの機会に求められたときに打明け話をすればいいのです。今晩もこうして、皆様から求められましたので、打明け話をさせていただくわけです。


 先日、神戸で集まりがありました。ご自分では無宗教に近いといわれる、私の尊敬している弁護士さんと、平和運動などにも打ち込んでおられるご住職のかたがたと、「現代と宗教」と題するフオーラムに招かれて、私はそのとき「牧師」として発言させていただきました。


 多くの皆さんは、私が「牧師」であることを御存じありません。これはこれで面白いことです。長くお付き合いの続いている方も出席されていて、彼もそのとき「自分はキリスト者だ」ということをはじめてお話しになって、実に愉快でありました。


 そのときお互いに「キリスト者」であることを初めて知りました。決して隠しているのではありませんが、こういうことは、隠れているというぐらいでいいのだ、と思います。


 教会では、いくら若蔵でも「先生」といわれ、どこか好い気になってしまう誘惑があります。しかし人間は、ただの人として生きることが一番です。


 私たちは、いまの地域で1968年以来、長い間生活をしていますが、「牧師」であることを知る人は多くはありません。知っていても、それはもともと特別のことではありませんけれども。                                       


 (続きは次回に掲載します。)