「私の部落問題入門ー「出会い」のなかで学んできたこと」(下)(1992年、西播研究集会)

宮崎潤二さんのスケッチ「神戸市北区僧尾:木枯らし吹く里」


早速、前回の後半です。


               *        *



               私の部落問題入門(下)

               「出会い」のなかで学んできたこと

               1992年12月6日 西播研究集会

     (前回のつづき)

      
                2 「発見」の喜びの溢れとして

 本来の解放運動のお宝は、何といっても「自由と平等」という確かな事実=人間の尊厳性を、現実の差別のただなかで「受け取り直し」「発見」し、自らその喜びのうちに、日々の歩みの中で「発揮」してきたところにあると思います。

 人間の尊厳性を、自らに、お互いのあいだに、社会のなかに、世界のなかに見出し、その実現のために立ち上がることができはじめてて、あの「水平社宣言」や「善き日のために」などが書き上げられていったのでした。そうした「お宝」があふれたものでした。
                                          
 もちろん、彼らにも当時、多くの曖昧を残し、平等の事実をしっかり踏まえて運動を展開することが出来たわけではありません。あの有名な「創立宣言」の中にさえ基本的な問題、清算すべき問題を残していましたし、実際の運動の進め方のうえでも、克服しなければならない大きな課題をかかえておりました。そしてそれは今日まで続いていて、幾度もその困難を克服する努力が積み重ねられて、現在の部落解放運動があるわけです。

 今日の資料の最後に、不十分なものですが、私のエッセイ<「水平社宣言」の批判的検討>というものも入れておきました。これは1978年に、九州大学の学生新聞から何か書くように依頼されて寄稿したものです。先ほどの「結婚」の「序文」なども入れて、学生新聞の全紙面を使って、特集の形で発表されました。

 九州大学は福岡にありますから、地元ではいろいろと波紋を生んだようです。何しろ解放運動にとってはバイブルのような「水平社宣言」を、私のようなものが批判・検討するのですから・・・。

 この小さな論文は、のちに『部落解放の基調―宗教と部落問題』という本の中に収められて、福岡の創言社というところで出していただきました。こういうことはやはり、自由な検討が行なわれ、学問的にも切瑳琢磨がなければなりません。この前に書き下ろしました『賀川豊彦と現代』も、現在の日本の宗教界に見られる、解放運動団体やそれに同調する宗教界の人々による、一方的で乱暴な断罪に対して、おとなしい私がどうしても黙っておれなくて書いたものです。これについては話すべきことが多くありすぎますので、またの機会にいたします。


                    詩人丸岡忠雄の世界


 ところで、話を元に戻しますが「目覚めと発見の喜び」ということでどうしても、丸岡忠雄さんのことを取り上げておかねばなりません。

 ご存じの方もあると思いますが、丸岡さんは7年前(1985)、惜しくも50台半ばでお亡くなりました。水平運動の西光万吉さんにも似て、私達にとっては忘れられない、また忘れてはならない先輩のお一人です。

 詳しい話は時間の関係でできませんが、丸岡さんは山口県光市のご出身で、1927年(昭和2年)生れです。
 1969年に『部落―5本目の指を』という詩集を出版され、当時大変な反響をよぶわけです。息子さんの誕生のときの両手形を赤く染めて、それを表紙にされました。それ以来、丸岡さんは全国に出向いて、幅広く講演活動をはじめていかれます。

 丸岡さんと親しく交流が始まったのは私の場合、1974年ごろからですが、交流が深まる中で、1979年には私たちの研究所で、丸岡さんの詩集『ふるさと』をつくりました。

 そして未完の作品「おみね伝」などを収めた遺作詩集『続ふるさと』も、丸岡さんの没後に出版させていただきました。そのあと永六輔さんがテレビで丸岡さんのことに触れられたことがあり、その部分を「序」におさめて、丸岡詩集の『愛蔵版「ふるさと」』もつくったりいたしました。

 丸岡さんの作品はとても分かりやすくて、広い読者を得てきましたが、丸岡さんのまわりには、いつも若者が多く集まり、垣根など全く無い、新しい世界がつくられていきました。

 そして次々と垣根を越えた新しいカップルも生れ、遺作となった「嬉しい日に」も、猿回しをしていた村崎智雄君が結婚家庭をはじめる、その門出の祝い歌でした。奥様からこの歌のメモを見せて頂いて、遺稿詩集に入れさせていただきました。

 丸岡さんのところには、永六輔さんや小沢昭一さん、そして宮本常一さんといった幅広い人々が集まって来られ、地元では詩人仲間たちも寄り集まって、深い交流を広げておられました。

 晩年まで丸岡さんは、腐敗した解放運動にたいして厳しい態度を貫かれましたが、そのひとつが「土下座」といった作品です。資料に入れておきましたので、お目透しください。

 丸岡さんの優しくも厳しいあの眼は、常にご自身の澄んだ「瞳」にありました。

 「瞳」という作品があって詩集『ふるさと』の最初に収められましたが、丸岡さんの人と作品の基調をよくあらわしています。私はこれは、丸岡さんの代表作ではないかと思っています。平仮名ばかりの歌です。


                いのちをみつめて 
                うたを こぼせ

                なみだではない

                うたをこぼすんだ
                ひとみよ

 
 丸岡さんの生活が、そういうものだったようです。
 奥様のお話によれば、亡くなるまえにはいておられた作業ズボンに、親鸞の『歎異抄』を入れておられたそうです。モーツァルトがお好きだったようで、丸岡さんの初期の作品に「四十番ト短調」という作品もありました。処女詩集も『ト短調』という題でしたが、ご存知のようにモーツァルトは、何処となく明るいトーンで貫かれています。短調でも、単なる短調ではありません。

 丸岡さんの生き方や物の考え方や感じ方は、大変魅力的なものでした。丸岡作品でもうひとつ「資料」に入れてあります。それは、10数年前のもので「命名 結子」という作品です。姪ごさんが結婚され、最初の赤ちゃんが誕生して、名付け親になられた時のものです。読んでみてください。是非これも、それぞれでお読みいただきたいと思います。


               3 新しい時代を共に生きる


 丸岡さんの作品は、厳しさの中のいつも明るい何かが底の流れていました。
 丸岡さんにとってどんな困難な時でも、生きることのできる土台はなくなることはないという、暖かな安心感が伝わってくるものでした。

 今わたしたちは、部落差別との関連では漸くにして「垣根のない」時代を迎えようとしています。
 「部落」とか「同和地区」とかいうことは、「過去のこと」として受け止める時代を迎えています。ですから、「自立と自治」或は「協同と連帯」という場合も、かつての「部落」と「一般」また「差別」と「被差別」という枠組からはいま、新しい一歩を踏み出しているのです。

 まだしばらくの間は「部落差別」は完全に解決したわけではありませんから、これまでの古い枠組でものを考え、「同和教育」や「同和行政」や「解放運動」が続けられていくに違いありません。しかし私たちは、かつての「部落」という枠組を越えてものを考え、生活をしています。                                        
 部落解放運動もいま、新しい模索と冒険の時代に入っています。

 杉之原先生が今回『部落問題解決への道』をまとめられ、広く読まれています。数年前には『国民融合への道』というパンフを出して、部落問題解決の歩みにおける「総仕上げ」にふさわしい「運動」「行政」「教育」のあり方について大胆な問題提起をされ、注目を浴びました。それは3年ほど前ですが、先生は、これからは「同和」を冠した行政、つまり「同和行政」とか「同和教育行政」は終わりにする方向性を、積極的に提起して、問題提起をしておられます。
                                          
 特別対策のもとでこの20数年間、部落問題の解決の取り組みが集中的に行なわれてきました。よくまあここまできたものだ、という感慨を持たれる方も多いと思います。20数年間でこんなになるなど、本気で誰が予想したでしょうか。

 この間の取り組みの経過と地域の現状を正確に見ていけば、杉之原先生の言われるように、行政上の特別対策はこれ以上継続すれば、逆に問題解決に逆行するという認識は、決して間違ってはいないと思います。このたび結果的には、特別措置の法律はさらに5年延長になりましたが、あと4年余りで特別の法律は終了いたします。
                                         
 私たちはいま、改めて最終的な道筋を確かめあう必要があります。                                          
 例えば、私たちの解放運動は本来、これは一つの住民運動であり、自治・自立の運動という基本が息づいていました。生活の自立運動として「厚生資金利用者組合」とか自動車運転免許の「車友会」運動など、各地で取り組まれてきました。子供会や老人会、青年運動、婦人運動、自治会づくりをはじめ、住環境の整備などの取り組みも積み重ねれれt、いま新しい「まちづくり」運動が進められつつあるわけです。

 かつての劣悪な環境改善の課題とはちがいます。此の頃では、これまでのような同和対策の延長とは違って、新しく「まちづくり協議会」がつくられていっています。

 神戸でも新しい試みとして「住宅・まちづくり研究会」が出来て、専門家も加わり各地域の地域診断や「まちづくり協議会」の支援を進めています。まちづくりの運動は終わりのない取り組みですが、従来の解放運動の延長とは大きく違ったものになってきています。旧来の「部落解放運動」の枠組みを超えて、「新しいまちづくり運動」に関わっていく、そういう時代になりつつあるように思えます。

 その中から「部落」の枠を超えた「共同」の取り組みが、高齢者の仕事の分野で、子供の教育の分野で、地域の医療や福祉の分野で、実験的な試みが進められて、それなりの実績を積みつつあります。企業関係者の方々の取り組みも、さらに新しい構想のもとに発展させて行こうとしています。 

 「新しい酒には新しい革袋を!」ということばがあります。われわれも、新しい酒を飲み、新しい革袋を、ともにつくる楽しさを、これから分かち合いたいと思うのです。

 ここは「部落問題入門」の分科会ですが、私たちは決して20数年前の時代に生きているのではありませんから、新しい時代における運動、教育、行政を創造していくことになります。これまでの枠組とは全く違った、新しいものが生れてくるはずです。

 現在の到達点を正しくつかんで、解決への確かな展望を見極めながら、「部落問題」を自覚的に「卒業」することでもあるのではないか、と思うのです。

 角谷さんは私たちの研究所の理事をされています。来年は創立20周年になりますが、社団法人に認可されたときでしたか、角谷さんが挨拶をされて、いまでもそのときの言葉を、私ははっきりと記憶しています。

 それは、「一日も早くこうした研究機関が必要でなくなるときの来るために、ともに頑張り、解散の日をともに祝いたい」というものでした。

 同和対策という点では、すでに各地で「完了祭」が行なわれつつあります。そこでは、節目節目に新しい方向を見出し、完了の見通しと展望を確かめながら「完了」の時を迎えています。

 それぞれの地域にふさわしい形で、これまでの取り組みの総括を行ない、新しい時代が到来していることを確認して、「部落問題」を過去のものにしていかなければならないと思います。

 まとまりのないお話でお茶を濁してしまいました。「みんなで話そう部落問題」の、何かの話のつまにして頂ければ幸いです。ひとまずこれで私の話は終わります。