「私の部落問題入門ー「出会い」の中で学んできたこと」(上)(1992年、西播研究集会)


今回収めるものは、1992年の記録ですから、もう20年も昔のお話です。私にとって、部落問題との日常的な関わりは1960年代の終わり頃からのことですから、このとき既に個人的な小さな経験を「昔話」のような語り口で話しているようです。


ま、これもたまたま残っていましたので、記録として収めることにいたします。




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     私の部落問題入門(上)span>


  ―「出会い」の中で学んできたこと―
                             
     
          1992年12月6日 西播研究集会「部落問題入門」


 殆ど毎年この地域集会には裏方の一人として参加して、もっぱら研究所の書籍を販売する役目をしています。本年は、私達の大先輩である角谷清太郎さんのお話の前座として、自由に何でも話してほしいというご依頼があり、こうしたハメなっております。


 この分科会はこれまで亀田順一さんの指定席です。最近の亀田さんのご研究は、籐村の『破戒』や正岡子規の俳句についてのもので、大変興味を覚えますが、本日は都合により私は亀田さんの代打ということになっております。


 亀田さんの最近のお話は、皆さんはまだ詳しくお聞きになっていないと思いますが、実は兵庫部落問題研究所で毎年「部落問題研修講座」を開いていまして、今年は19回目になりますが、先日は亀田さんの藤村の『破戒』の話をたっぷりと聞きました。そして10月25日の京都の竜谷大学での部落問題研究者集会の「部落問題と文芸」の分科会でも亀田さんの報告があり、そこでも私は聞かせて貰いました。


 あとで少しその内容にも触れることができるかも知れませんが、亀田さんの主張はなかなか刺激にとんでいて、専門家の間でも注目を浴びていました。私などの素人の目でも、納得させられるものでした。ともあれ、亀田さんの代わりにはなりませんが、よろしくお願いいたします。


 今回は「入門」の分科会です。「なんでも話そう部落問題」ということで、「部落問題と私」といったことで話をして、後で自由な意見交換をしていくという趣旨だそうです。ですから、標題のような題を付けて、新しい時代を迎えている今日、わたしたちにとって大切に思われるいくつかのことを、できるだけ率直に、打明け話のようなことをお話してみたいと考えています。


          1 人間(もの)に垣根はない

                 「ハク・敵論」と「ハク・ユダ論」を超える


 最近、河合隼雄さんの『老いのみち』『こころの処方箋』『こどもの宇宙』などの本を読んでいます。
 河合さんの『生と死の接点』という本で「ライフサイクル」について触れたところがあります。レビンソンという方の『人生の四季』を紹介して、人生を四季の変化に読み取って四つに分け、1児童期・青年期(0〜22)、2成人前期(17〜45)、3中年期(成人中期)(40〜65)、4老年期(成人後期)60以上。(神谷美恵子さんの『こころの旅』では「人生への出発」から「旅の終り」まで10章にわたって記しておられますが)


 わたしはいま中年期のさなかですが、勿論わたしにも「青春時代」というものがありました。高校時代、ひょんなことから教会に行き出して、面白い牧師に出会いました。それで、がらにもなく「牧師」を夢見て、母子家庭でお金もないのに、大学に行き(当時は志があればいける時代でした!)、6年間人並みに苦労もして卒業しました。


 結婚相手ともめぐり合い、卒業後すぐ琵琶湖の近くの教会で働き、その2年後には、神戸の賀川記念館のなかにある教会に招かれて(賀川については、高校生の時から関心を持ち続けていましたが)2年間過ごし、28才のときに、正式な牧師になりました。(わたしの連れ合いも一緒に)。以上が、早口で語る「私の青春のころ」です。


 その間に、新しい「発見」がありました。正式に牧師になる前から、牧師になったら既成の教会の牧師にはならず、新しい牧師の生き方を始めることを考えていました。
 私たちの「志」は教団にも正式な形で認められ、神戸の番町地区のなかの六畳一間の住宅を借りて、職安経由でゴム工場の雑役としての生活がスタートしました。世界に一つとない「信徒のいない、牧師ふたりの家の教会」として「番町出合いの家」が誕生したのです。
 今は昔、あれから早くも四半世紀が過ぎて、幼かった娘たちは巣立ち、私たち夫婦はネコとの暮しになって・・。


 番町での新しい生活を始めたのは1968年ですので、神戸の解放運動もようやく運動らしく形を成しつつあった頃です。1965年に同和対策の答申が出されて、特別措置法を強く要求していた頃です。


 ですから、番町では西脇忠之さんたちが、仕事保障のために自動車の免許を取得する組織(「車友会」)をはじめたり、借金苦から脱して生活の自立を目指す「厚生資金利用者組合」を構想しているときでした。


 私たちにとって新しい生活を始める場所が、たまたま神戸の番町だったのですが、ごく自然に西脇さんたちと、地域の自治会づくりや住宅建設のことなど、以後ずっと今日まで、一人の住民として共に歩み、「楽しく」過ごして参りました。


 不用意に「楽しい」などというと誤解を招いてしまいますが、当時はすでに解放運動が内部でギクシャクしてきた頃ですけれども、東京12チャンネルの「ドキュメンタリー青春」という番組があって、わざわざ東京からディレクターの方が、私たちの取材のために番町にこられました。


 この取材は、私たちははじめ固くお断わりしたのですが、西脇さんの方から、部落問題を取り上げてくれるのだからぜひ応じてほしいという申し出もあり、結局十日間ほどのあいだ、地域の中や労働の場であるゴム工場や、私たちの家まで入ってきての取材がありました。


 その時のことですが、西脇さんと西田秀秋さん、そして私たち夫婦と4人で話し合う撮影の場面がありました。長時間あったのですが、どういう成り行きだったのか、私が「ゴム工場で毎日汗を流し、地域の課題を少しでも担えることは、苦しいというよりいまは楽しい」というようなことを発言したのをうけて、特に西田さんから強い反論を受けたことがあります。「ゴム工場の仕事のどこが楽しいんや、気が狂いそうや、そういう鳥飼さんは信用できん!」と。


 当時まだ地域では「ハク・敵論」ということが言われていました。現在ではすっかり死語になりましたが、部落以外のものをさして「ハク」といわれて、部落にとって部落外のものは、いつも裏切るもので「敵」であるという受け止め方が残っていました。当時、解放運動の中でもよく言われていた「部落民以外はすべて差別者だ」という、あの気分・感情がまだ残っていたわけです。

                                        
 確かに、これまでの経験的な事実からすれば、「差別の壁」が存在していましたから、「差別する側」と「差別する側」、敵か味方かに人を分けて、その「壁」はあたかも絶対的なもののように、また「運命的」なもののようにとらえて、その「壁」を絶対化する傾向が消えていませんでした。


 これを「部落第一主義」とか「部落排外主義」とか呼んでいましたが、どこか無意識のうちに「独り善がり」な病的な気分がその人を捕らえていなければ言葉にできないようなことですが、あの頃はまだ、マジメにそれを理論化して、それで差別糾弾闘争を進めてしまう流れが強かったと思います。ああいうことは、どこか酔っ払っていなければ言えないようことですが、そういう反応があったりいたしました。


 先日、兵庫県の「同和問題に取り組む宗教者連帯会議」の集まりが神戸市中央区のモダン寺でありました。我々のキリスト教団の「部落解放センター」が中心になって「部落解放全国キャラバン」をやっていて、その報告がありました。いまだに教団では、牧師志願の「部落民宣言」があったりして、随分と時代錯誤のようなことが宗教界では見られます。特定の運動団体のあと追いをして、しかも遅れた動きに連動して加熱していることが多く見られます。
                                         

 しかし私たちにとって大変幸いなことだったのは、当時の神戸の部落解放運動を担っていた人たちが、そうした病的な酔っ払いのように見える人たちではなくて、本当の意味で「部落」から解放された人たちでした。


 ですから、お互いに持たなくてもよい「壁」意識からは自由でしたし、宗教者にはしばしば見られがちな見せ掛けの「差別意識」や「罪意識」からは自由であることができました。あくまでも、この町に住む一人の住民として、何の垣根もなく暮すことのできる関係が、初めから自然につくれたことは、とても嬉しいことでした。


 ですから当時わたしも、自動車の運転免許をもっていませんでしたし、「車友会」の一員として一緒に識字学習に参加したり、厚生資金利用者組合づくりに加わったり、住宅問題も私の住んでいたところが不当にも指定地区から排除されていたので、指定地区に組み込ませるために、それなりの努力をしたり、「楽しい」日々を過ごすことができました。


 5年間ほどゴム工員をいたしましたが、ロール工という職人になった時にひどいギックリ腰で半年寝込み、労災を受けながら治療を重ねましたが、結局仕事ができなくなって、その後、神戸市の社会教育課の嘱託で地域の公民館に3年ほど勤めて、それ以後現在の研究所の仕事をさせていただいているわけです。


 部落解放運動の出発点は、確かに見える形では、現実に「差別」の事実があり、この「差別」―仕事や教育や住環境や―をなくしていくということにあるわけですが、お互いの間には、もともと差別の垣根などはないのです! 


 これまでの日本の社会の歴史的なマイナスの傷跡として「部落差別」は残されてきましたが、お互いの間には何の垣根も「壁」もないのです! そういう「事実」をハッキリと気付かされるところに「解放」の出発点があり、そこから具体的な地道な解放運動は成り立ってきていると思うのです。


 はじめにも少し触れましたように、亀田さんが「解放の道」で11回にわたって「小説『破戒』の世界」を連載されました。「資料」に最初だけを入れておきましたが、興味深く読まれた方もあるでしょう。亀田さんが、藤村の『破戒』の丑松に多大の共感をもっておられることに、ここで触れておかねばなりません。


 これまでの一般的な評価は、「丑松」的な生き方ではだめだといって批判してきました。とりわけ、部落解放同盟の側からこの小説を「差別小説」と断じて以来、そのような読まれ方がされてきました。


 亀田さんはこの小説を読み直し、「丑松」を従来のような批判の眼で見るのではなく、むしろ共感すべき先生として読解して、藤村の新しい評価を示しているわけです。あの小説は藤村が34才の時の処女出版で、明治39年に出ています。当時は現在と違って、部落出身であることを「告白」するとか、「自白」するとか、何か悪人か罪人でもあるかのような目で「素姓」を明かさなければ悪いことをしているかのような状況があったわけです。藤村はそうした問題を小説のなかで描いたわけです。


 亀田さんは、小説の全体にわたって、見事に藤村の意図を読解しています。そして、今日の問題意識と関連させて、「隠す」とか「隠さない」とかは各自自由ですが、「部落民としての自覚」とか「部落民宣言」などは不要なのだということを、亀田さんは明らかにしています。


 いま亀田さんには、これをブックレットにまとめていただくようにお願いしています。この新しい解釈は見事だと思います。「視点」「見方」が新しくなるということは、非常に素晴らしいことです。ぜひ皆さんも、亀田さんからこの話を直接聞いていただきたいと思います。


 藤村の『破戒』理解の新しさに加えて、亀田さんの正岡子規の俳句理解にも驚きました。
普通、正岡子規の書き残した次の句などで、差別的な俳句だとして批判されているそうです。それを亀田さんは全く違った理解をするのです。そしてその理解はまた素晴らしいのです。問題とされている子規の歌は、次の作品です。


           「鶴の巣や 場所もあろうに 穢多の家」


 一見、ひどい差別的な作品であるとおもわれるでしょう。
 しかし、亀田さんは、これをなによりも先ず「鶴」に深い共感をして読もうとします。「鶴」は松山には殆ど来ないそうですが、その鶴が、そこに巣をはったといって、正岡子規が感動して歌ったのだと読めば、全く解釈はちがってくるというのです。


 正岡の晩年、病の床に伏しているなかでつくられたもので、彼の師となる方は松山市長をしたりした方で、明治時代フランスに留学し、ヨーロッパの自由な精神に触れ、当時の部落の寺に葬ってくれるように遺言をして、実際にそのようになっているそうで、亀田さんはそのお寺にもいってこられたそうです。


 こうした自由・平等の息吹を感じさせるものは、明治時代でも藤村や正岡、また夏目でもいきづいていたわけです。そういうことは今日では常識的なことでしょうが、そこをあらためて確かめておくことは重要なことではないかと思うのです。


 今から16年も前(1976年)になりますが、『私たちの結婚―部落差別を乗り越えて』という本づくりを担当したことがあります。20組ほどの結婚家庭を訪ね、その成り染めから結婚まで、そして結婚生活のいまをあれこれお聞きして、一冊の作品にまとめる機会がありました。


 そのときに「結婚と部落差別」というについて短い序文を書いたことがあります。一部分「資料」に入れておきましたが、そこで「結婚には積極的な根拠はあるけれど、部落差別にはそういう根拠はないのだ」ということを書きました。「部落差別」の問題性を解くことも大切ですが、結婚についての基礎的な理解がどうなのかということが一番大切なことではないかということを強調しておきました。


 結婚の確かな絆を、ふたりが謹んで受け入れているかどうか、そこがはっきりしてきますと、どんなことがあっても大丈夫なのです。結婚というのは、普通「ふたりの愛」で成立するものといわれます。実際はしかし、その「ふたりの愛」を裏打ちしている「結婚の確かな絆」を、ふたりが謹んで受け入れる、ということですね。そこからふたりは落ち着いて、結婚の準備を進めていきます。もし周囲にそれを阻むような壁があれば、その絆を確かめあいながら、壁を乗り越えていくわけです。諦めることなく、二人で、あるいは関係者の間で努力を重ね、結婚家庭を実現させてゆくわけです。


 学生時代に読んだ本ですが、マックス・ピカートの『ゆるぎなき結婚』という素晴らしい本があります。ピカートには『沈黙の世界』とか『人間とその顔』などの名著が翻訳されていますが、あの本はいま読んでもなかなかのものですね。

                                     
「融合論」再考


 ところでレジュメに「融合」論再考、と書いています。
 私は、部落解放理論として1970年代に「融合論」というものが言われ始めたときから、実はどこかシックリしないものを感じてきました。それは、「融合」という言葉は、はじめに何か別々のもの、異質なものを前提して、それを「融合」するような感じがのこり、どこか底の浅いものを感じてきました。


 「八鹿高校事件」の少しあとですが、但馬の方で招かれて話をする機会があって、次のようなお話をしたことがあります。


 「初めから何の垣根もないのです。人間の平等という事実は、どの時代にあっても、差別の厳しかったときにも、厳然として変わらない事実だったわけですし、その事実を踏まえて、差別に対して抗議し、不当に置かれた垣根を取り除くために力を合せてきたのです。 そこをしっかりと見極めることをしないで突っ走ったのが、あのようか高校事件を引き起こしてしまった但馬の間違った「解放運動」です。隠されたこの「人間平等の基盤」を見ようともしないで、勝手に「差別」ときめつけて突っ走ったものでした。大切なことは、「はじめの人間の平等の事実」を踏まえることの大切さだと思います。」


  (後半は次回に)