「新しい時代を迎えるー神戸における小さな経験から」(第4回)(高砂高校、1999年11月12日)


今回もすぐに前回のつづき(第4回)を掲載します。



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            新しい時代を迎える(第4回)


            神戸における小さな経験から


            高砂高校 1999年11月12日


    (前回のつづき)


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先程、私は、はじめゴム工場で働き始めたことを話しました。
 私自身は、ずっとそこで働くつもりでしたが、4年ほど働いて、やっと雑役の仕事から「ロール士」という職人になったところで、残念なことにひどい腰痛(ぎっくり腰)にみまわれ半年の間寝込んでしまい、ついに職場への復帰ができなくなりました。


 予期しないことが人生には起こります。
 それで、地域の中にあった神戸市立の公民館の嘱託をさせてもらって3年ばかり、「婦人講座」「老人講座」などの仕事をしてきました。


 それから、1974年からは「神戸部落問題研究所」の設立に参加して、以来25年あまり「部落問題に関する調査研究」の裏方をさせていただき、現在に至っています。

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 そして皆さんも経験された、あの大震災を、これも被災地のど真ん中で、高層住宅の11階で、恐ろしい体験をしました。


 私たちが住んでいた場所は、皆さんもテレビでよくご覧になったあの「御蔵菅原商店街」のすぐ北隣です。菅原商店街とその周辺は、私たちの目の前で、火災が発生して、無残にも焼け落ちてしまいました。

 
 台湾の地震のように高層ビルが倒壊することはありませんでしたが、14階建の高層住宅が「全壊」となってしまいました。


 近しい人を失い、私たちの地域でも42人の方々がなくなりました。沢山の家が倒壊し大きな被害を出しました。
 (皆さんも、神戸に来て、助けて下さったかたもおられると思います。高いところからですが、本当にありがとうございました。本当に一生忘れることができない経験をさせていただきました。)

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 地震の体験は実に恐ろしい体験でした。
 が、この経験は同時に、これまで「残されていた壁」が、ふっとんだ出来事でもありました。


 痛んでしまった町や地域、そしてひとりひとりの生活の立て直しについて、これまで長く取り組んできた「いわゆる同和対策で」という声は、地域の中から出ることはありませんでした。


 すでに私達の地域では、震災の前から、神戸市の全市的に進められていた「ふれあいのまちづくり協議会」をつくり、それをスタートさせていました。
 これまでは「同和対策事業」を推進するための組織をつくって頑張ってきましたが、事業の完了・終結にともなって、新しい枠組みで取り組みがはじまっていたわけです。


 ですから、震災後の取り組みも、神戸市全体の復興計画の中で、新しいまちづくりが進められていきました。

 
 大分時間をとってしまいましたが、この間の取り組みで、私自身にとっても、大変忘れられないことを、あと少しお話しさせていただきます。