「新しい時代を迎えるー神戸における小さな経験から」(第3回)(高砂高校、1999年11月12日)


今回も早速、前回の続きとして第3回目を掲載します。



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            新しい時代を迎える(第3回)


            神戸における小さな経験から


            高砂高校 1999年11月12日


      (前回のつづき)


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 はじめに申しましたように、部落差別はいま、多くの方々の努力で、基本的に「過去」のことになりつつあります。


 隠さずに申しますが、あの30年前に、ゴム工場の雑役で汗を流し、毎日多くの「出来事」が起こっていた「あの時の経験」の中では、まさか20世紀のうちに、あるいはもっと言えば、私が生きているうちに、この問題の解決のめどがたつとは、思えませんでした。


 今考えると、まったくおかしなことですが、生活を始めた当初、家内が短歌や俳句、エッセイなどを書いていました。
 長女の名前を「○○」といいます。「○○よ、泣くな」という詩をつくっていました。


 父親に似て泣き虫でしたから、「泣くな、○○よ」という詩になったとおもいます。
 「今は泣くな、大きくなって好きな人が出来たときに、ただここに住んでいるというだけで差別される、きっとその時がくる、その時は泣くがよい」といった内容のものでした。


 当時は、まだ本当に「結婚差別」や「就職差別」も珍しいことではありませんでした。


 そして、私自身も、ゴム工場の雑役をしながら、当時の同世代の人達の生涯と重ね合わせて、自分自身の将来を覚悟をしていたようなところがありました。


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 部落問題を解決するための特別の法律は1969年にやっとできましたが、それは10年の時限立法でした。つまり10年間の間に、問題を基本的に解決するという決意が、うかがわれるものでした。


 ですから、神戸では少し遅れて出発しましたが、1971年(昭和46)に、大掛かりな実態調査を実施して、住宅環境や仕事・暮らし・教育などの総合調査を実施しました。
 (この時も、皆さんはまだ生まれていない!)


 そして、この調査をもとにして、地域毎のまた年次毎の、本格的な解決のための「長期計画」を作り上げました。実に多くの集中的な討議をへて策定しました。


 いま、振り返って思います。調査も大変な作業でしたが、この調査結果をもとに、解決に向けた「計画づくり」に、多くの方が参画したことの意味は絶大なものがあります。


 立場の違う人、考え方の違いを越えて、これまで放置されてきた貧困と差別の実態をどう解決するかという一点で、共同の知恵を出し合いました。
 このときの「経験」は、のちの具体的な取り組みにも、非常に大きな影響を与えました。


決められた「計画」にもとづいて、計画どおりとはいかなかった部分もありましたが、年々、着実に「同和対策事業」が進められて行きました。
「住宅を中心とした環境改善事業」「生活福祉対策」「教育人権対策」と総合的な取り組みが積み重ねられていきました!


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 そしてその10年後の1981年、総合的な取り組みの成果を確かめるための「実態調査」を実施しました。
 (この時も、まだ皆さんはこの世界に誕生していませんね)


 この調査結果に基づいて、これまで進めてきた改善計画を再検討しました(行政の言葉は「見直し」作業といいますね)。
 特別の法律にもとづいてすすめてきた「同和対策」で、一定程度成果を生んで、特別の取り組みが不要になった事業の多くは、次々と廃止していきました。
この時の論議も、実に活発に行われました。


 「部落問題が解決する」ということは、どういうことなのか。これまで進めてきた「同和対策事業」や「同和教育」は、本当に問題解決に役立っているのか? といった、率直な意見が多くだされました。


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 そして、今から8年前の1991年には、基本的に同和対策を終結するための見通しをさだめる上での「最後の調査」を実施しました。
 したがって、神戸では今年(1999年)の春・3月末で、一部の地域で残っていた「残事業」をすべてやり終えて、環境改善事業などの物的な事業は、基本的に「同和対策の長期計画」を終了することになったわけです。


小さな自治体では「完了・終結」したところは、全国各地にみることができますが、神戸のような「政令指定都市」では、事業の終わりを見たのは最初のことでした。