「新しい時代を迎えるー神戸における小さな経験から」(第2回)(高砂高校、1999年11月12日)


早速、第2回をUPいたします。


   
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            新しい時代を迎えて(第2回)


            神戸における小さな経験から


            高砂高校 1999年11月12日


       (前回のつづき)


 へんな自己紹介になりました。
 今日は、こんな高いところからですが、おもいがけず、皆さんにお会いでき、『新しい時代を迎えてー神戸の下町の小さな経験」をお話できることを、大変うれしく思います。

      
 先程、ご紹介をいただきましたように、私は下町の「牧師」です。
 あとでお話ししますが、普通の牧師と違って、ちょっと「変わった牧師」の歩みをしています。


 先程、私自身は「高校生の時に夢が宿った」と申しました。
 私の通った高校は、倉吉東高校といいます。
 当時、石炭で動く汽車・デゴイチに乗って、毎朝6時55分発の2番列車で通学していました。


 倉吉という町は、静かないい町です。
 打吹山という小高い山があって、打吹公園という櫻の名所がある。
 そこで売られている「打吹だんご」が有名で、おいしい!


 この公園の近くに、古い伝統のある教会があって、友達に誘われて、時々そこに出入りするようになりました。
 私達の高校はほとんど男子でしたが、倉吉西高校は女子高で、高校生たちが群れていました!


 そこで、私は、魅力的な牧師夫妻に出合いました。
 そのとき、私もあのような生涯を送りたい、と思うようになりました。


 私の高校も、皆さんと同じように、県立高校の普通科の高校でした。
 高校3年のとき、担任の先生は田村先生といいいました。
 その先生に、自分の志望先を告げましたら、先生はとても喜んでくださいました。
 田村先生は物理の先生でしたが、私の選択を、なぜか心から喜んでくださった! それがとても僕はうれしかった! いまでも、そのときの様子をはっきりと覚えています。田村先生の笑顔を。


お金もないのに、 よく進学を決意したとは思います。
 しかし、実際に進学をしましたら、母子家庭への奨学資金制度があったり、神戸製鋼所で働いていた兄からの仕送りがあったり、私自身も家庭教師やたくさんのアルバイト(映画のエキストラ・京都の祭りの行列)などで、京都での学生生活をいたしました。


 皆さんは高校生活を送りながら、いろんな好きな本を読む経験をもっておられると思います。
 しかし、私は、「本を読む喜び」を知ったのは大学に入学してからです。「学ぶ」ということ・「考える」ということを、大学で知りました。


 これは、もっと早く、皆さんの高校生の時に、「学ぶこと」「考える」楽しさを存分に知っていればよかった、と思います。


 今、神戸市の外国語大学で、週に一度、講義をさせてもらっています。
 沖縄や北海道、全国から集う学生の皆さんを相手に、とてもおもしろい!

 
 彼ら・彼女たちは、正直に、また切実に訴えます。
 「これまで、受験勉強をしてきて、とにかく志望の大学に入った。けれど、自分がいま学んでいる意味がつかめない」と。


 大学は、文字通り「学問」をするところです。自分「問い」をひっさげて「悪戦苦闘」をするところです。
 「問がやどる」こと、これがなければ「真剣な学び」「学問」はできません。


 私は、大学時代6年間、そこでの私の「真剣な問い」は、「なぜ人間は独善的になるのか・ひとりよがりになるのか」という問でした。
 その問があったお陰で、いっぱい本を読み、学問の上での恩師にも出会うことができました。
 めでたく「修士論文」も仕上げて卒業し、結婚もして、滋賀県の琵琶湖畔の教会の牧師になりました。   


            ☆☆☆☆☆☆


さて、今日は、我々世代と違って、皆さんにとっては、ある意味ではすでに「過去」のことになりつつある「部落問題」について、私自身の「神戸の下町での小さな経験」をお話しさせていただくのが目的です。
 ついつい、高校生の皆さんを前にしましたら、自分の高校生のころなど、過ぎ去った青春時代を思い起こしてお話をしてしまいました。
 年寄りの証拠です。来年辰年で還暦を向かえます!から・・


 私は、はじめに、申し上げたいことがあります。
 それは「部落問題」がいま、これまでの、多くの方たちの努力で、ようやく「過去」のことになりつつあると申しました。

 
 お話の順序が逆かも知れませんけれども、私自身がこれまで、30年あまりの激動の時代を、神戸の下町で暮らして、いつも大事にしてきた「ひとつのこと」を、まずはじめに申し上げたいと思います。


 それは何かと申しますと、最も基本的なことですが、「差別」は、人間にとって非本来的なもので、積極的な意味での「根拠」は全くない、という一点です。


 私たちの現実には、「差別」がいっぱいです。男と女の性差別、能力・学歴による差別、いじめや虐待、民族・宗教による差別、・・。


 しかし、これらすべてにおいて、積極的な意味での「差別」の根拠はない、という、この「確かな事実」です。


「はじめに差別があった」のではない! 「はじめに『いのち』があった」! 「差別」ではない「いのち」が、私たちと共にある。
 この「確かな基礎」土台が、誰のもとにも、確実に据えられている!

 
                ☆☆☆☆

 
 私は、6年間の学びを終えて、滋賀県の琵琶湖畔の教会で2年間、1966年(今から33年も前に)に、神戸の教会に招かれて、はじめて神戸に来ました。当時「葺合区」と呼ばれていて、明治のころから「日本一大きなスラム」のあった地域で、2年間働きました。
 そこは、明治以降に形成された都市部落でした。


 そして、私たちは1968年の春から、長田区の下町の現在の地域に生活場を移して、「新しい歩み」を始めました。
 そしてはや、30年を越えてしまいました!


 30年前は、皆さんはまだ、どこにもおられないときです!
 「いま・ここ」にこうして、高砂高校で、友達と一緒に、こうして学んでおられますが、これ、「不思議なこと」ですね!


 長田の下町の地域は、当時、日本で一番大きな同和地域でした。人口が1万人もの町でした。
 地域のど真ん中の「中根アパート」というところが、私たちの住まいでした。便所は共同でしたが、水道付きの6畳1間。
 幼い女の子(三つと四つ)二人と親子4人で暮らすには、大いに窮屈でした!


 しかし、この地域の生活環境としては、決して珍しいことではありませんでした。
 この6畳1間が、私たちの家であると同時に、そこが公認の教会として認可されました。名付けて「番町出合いの家」。
 妻は関西学院の神学部で学んで牧師になっていましたので、牧師ふたりで信者さんなし。


 わたしの仕事場は、自転車で15分ほどのゴム工場の「ロール場の雑役」でした。職業安定所の紹介で見つけました。


 まだそのころは、生活の中に「部落差別の傷跡」が残されていました。都市の地域では特に「差別と貧困」を強いられていました。


 1968年といいますと、私たちの地域だけではなく、日本社会の中に部落差別が厳しいかたちで残されていました。


 日本の歴史の中で、はじめて、部落問題を国の責任で総合的に解決して行く「特別の法律」が成立するのは、その翌年の1969年(昭和44)です。


 日本が封建時代から近代市民社会へと大きな展開を遂げる「明治維新」からそのとき100年あまり、戦後から数えても4半世紀が過ぎていました。
 「よくもこんなに長い間、問題を放置してきたものだ」と思いました。


 しかし、私にとって、この30年あまりの「小さな経験」は、激動の日々でしたが、ひとつひとつ貴重なものでした。



    (つづく)