「うつわの歌ーいのちの尊さ」(上)(関西学院中等部、1997年10月22日)
1997年秋、関西学院中等部の「宗教運動」の期間中、総合テーマ「いのちの尊さ」のもとで多彩な取り組みがすすめられ、10月22日に招かれて、生徒の皆さんに短いお話をする機会がありました。
このときの話は「うつわの歌ーいのちの尊さ」として、神谷美恵子先生の著書『うつわの歌』をそのまま題にいたしました。
短いお話ですが、上下2回に分けて掲載いたします。
その前に、神谷先生の没後に出版された名著『うつわの歌』の表紙と、2004年にみすず書房より「神谷美恵子コレクション」全5巻が刊行された時に、みすず書房編集部編による写真とことばで編む『神谷美恵子の世界』が出ていますが、その表紙をここにUPして、本文を収めます。
* *
うつわの歌ーいのちの尊さ(上)
関西学院中等部 1997年10月22日
序
おはようございます。
夏目漱石の門下生の一人に内田百輭という魅力的な教育者がいます。黒沢明の最晩年の作品「まあだだよ」のモデルにもなった有名な随筆家でもありますが、彼の作品に『阿呆の鳥飼』というのがあって、文庫本にもなっています。
私は、この本を書店で見付けて、大変驚いた覚えがあります。私「阿呆の鳥飼」と申します。
小学生の頃の綽名が「ブルドッグ」でした。顔が大きくてどこか似ていたのでしょう。男ばかりの3人兄弟で私は末っ子です。兄たちは「ケーの頭は大きいが、中はガーロや!」と言っては虐めて私をよく泣かせました。
色々ございましたが、只今57歳です。明日お話になる長尾先生も同い年です。
あの地震の時は、テレビでいつも写された、あの無残な焼け野原になってしまった「菅原商店街」のすぐ横の、14階建て高層住宅の11階に住んでいました。
この高層住宅もボコボコになり全壊でした。こうして皆さんと共にいま生きていることが、とても不思議です。
この上ヶ原のあたりも大変だったようですが、皆さんは大丈夫でしたか。
昔、学生だったころ、このすぐ近くに、恋する彼女の下宿がありました。いまはすっかり様子が変わってしまっています。
個人的なことですが、川崎正明先生には昔、芦屋山手教会の牧師をしておられた時に、お世話になりました。先生はお忘れでしょうが、私の恋する彼女が関学の学生で、先生の教会に出席していました。
私は京都の同志社で学んでいましたが、「桜実の熟する時」を迎えまして、先生の教会で婚約式をしていただきました。こんな場所で御礼を申し上げるのもどうかと思いますが、その節はどうもありがとうございました!
いまも、大変幸せに結婚家庭を続けさせていただいておりますので・・・。
本当は本日、相方が参りまして、皆さんにお話をした方がいいのですが、本日はこういう成り行きになりました。明日お話になる長尾先生とは、実は相方が関学で学んでいた時に、岡山の長島愛生園に学生ワークキャンプにご一緒した仲のようです。
しかも第一回目の参加者だったそうです。川崎先生もその後、愛生園の方々とも「いい出会い」を続けておられることは、皆さんが良くご存知のとおりです。
実は、このハンセン病の治療に深く関わられ、当時芦屋に住んでおられた神谷美恵子先生のご長男が、芦屋山手教会の教会学校にきておられて、先生のおうちを訪ねたりして、先生からサイン入の御本(岩波文庫のマルクス・アウレリュースのあの有名な「自省録」)を頂いたりしたようです。
神谷先生は当時まだ40代半ばで、その長島愛生園に非常勤講師として検診に出掛け、ハンセン病の研究をなさっていました。
本日のお話の題は、この神谷先生が1979年に65歳で急逝されたあと、10年して1989年にみすず書房から刊行された素晴らしい作品、そして大変重要な作品となりました『うつわの歌』という御本の書名を、そのままいただきました。
神谷先生の作品は、何時でも本屋さんにいけば『こころの旅』『生きがいについて』などが山積みされています。
先日、福岡の方に出掛けていました折に、書店でたまたま宮原さんの『神谷美恵子 聖なる声』という本を見付けて、帰りの新幹線のなかで読みました。大変有益な作品でした。私は見ていませんが「驚きももの木20世紀」というテレビ番組で取り上げられていたようです。
『うつわの歌』という作品は、先生の作品のなかでも、特別に私は大好きな作品です。
これには、神谷さんの20歳過ぎの頃の貴重な論文や詩作品と最晩年の翻訳作品が収められています。
美恵子先生の20歳過ぎといいますと、私がまだこの世界にいなかった頃です。
すでに先生は、宗教について・キリスト教について、実に的確な問題意識をもって、それを英文でまとめておられ、これには日本語に翻訳されたたものが収められています。
今くわしくお話できませんが、共鳴する部分が余りに多くて、全く驚いてしまいます。
今日・明日と二日間にわたって、今年の「秋季宗教運動」の主題が「いのちの尊さ」ということで、御依頼を受けてから、ずっと私自身の事として、思い巡らしてまいりました。
皆さんも、おそらく本日を迎えるまでに、秘に御自分の事として、私の「いのちの尊さ」って何だろう、と御自分の「問い」を出し、そして御自分の「答え」を思い巡らして来られたと思います。
こういう恵まれた教育環境で学べる皆さんは、本当に幸せなことですが、「いのちの尊さ」はこういう「環境」や「能力・知識」とどんな関係があるのだろうか・・。
人間、あるいはものは、「何かに役立つから尊い」のだろうか・・。病気になったりケガをしたりして、家族やほかの人たちに世話になり、迷惑をかけるようになってしまえば、「生きる価値」がなくなるのだろうか・・。
人間は「ものを考えることができる」、だから人間は、ほかの動物たちよりエライのだろうか・・。心身に障害がでて、痴ほう性の状態になれば、「人間の尊さ」が失われるのだろうか・・。「人間はどこから来たのだろう。人間はどこへ行くのだろう」・・。
人間にとって・世界にとって・確かな土台・生きる基礎は、本当にあるのだろうか・・。あるとすれば、この私とどのように関係しているのだろうか・・・
一体、私は何のために生れてきたのだろう。どう生きたらいいのだろう。・・。
世界には、いっぱい仕事があるけれど、私の一生の、生涯の仕事は何だろう・・。
余りこういうことは、お互いに口の出して問うことは致しません。
けれどもだれでも、「自分の問い」、苦しみ・悩みをもって毎日生きています。
私は確信していますが、この「私の問い」「切実な悩み」があって、その「私の問い」にぶち当たったときに、「私の学び」がはじまるのだ! と。
古くから「学校」でも「家庭」でも同じですが、「知育」「徳育」「体育」をトータルに「育む」場所だと言われてきました。単なる「知識」ではなく「本当の知育」「本当の徳育」(モラルというよりモラリティー)「本当の体育」をめざして、皆さんが、先生方と一緒に、いま日々研鑽を重ねておられます。
本当にこれらを実らせるのは、皆さん自身が新鮮なトレトレの「自分の問い」を大切に受け止めて、失敗したり、間違いを重ねたりしていく! それを「発見する」! 「発見する喜び」を「経験」する! その積み重ねですね。
少し横道にそれましたが、私は「いのちの尊さ」を考えるときに、これまで大事にしてきたことがひとつあります。それは「いのちはもともと授かり物なんだ」という単純なことです。
「いのち」「こころ」ということが良く言われますが、これはこの「わたし」、まるごとの「わたし」のことです。からだも含めた「わたし」は「授かり物だ」ということです。
それは、人間は(もの)は「うつわ」なのだという「感じ」フィーリングです。
うまく表現できませんが、このことを少しご一緒に考えて見たいと思います。
もう少し神谷先生のことに触れさせてください。
私は1940年生れです。私の父は、妻子を日本においたまま、中国の東北部、当時の「満州」で仕事をしていました。当地で、敗戦の年・1925年2月に、36才で結核で亡くなりました。私は、父の顔も記憶がありません。写真で見るだけです。
帰って来た父の遺骨を、母親が我々3人の子どもを仏壇の前に座らせて、ローソクの明りで照らしながら、みんな泣きながら見た記憶が、微かに残っているだけです。
そこから私たちの戦後が始まるのですが、父の病気が、私にも感染して小児結核になり、私は小学校を卒業するまで、学校での体育ができませんでした。
ブルドッグのような大きな顔をして、兄たちからは「お前の頭はガーロ」だといわれ、近所のおばさんは、私が歩いていてもフラフラして真直に歩けないので、溝にはまらないか心配したなどといわれたりして・・。小学校の時までは、体操のときも校庭で木陰にしゃがんで、ただボーと眺めているだけでした。
神谷先生は21歳の時、1935年ですから、私が生れる5年も前です。津田英学塾の学生さんでしたが、肺結核に侵されて、軽井沢で療養のため休学を強いられます。
お父さんが前田多門といって、新渡戸稲造の門下で文部大臣になったり、国際的な仕事をされた有名な方でしたから、軽井沢での療養もできたのでしょう。
肺結核で療養中に生まれた作品のひとつが、「うつわの歌」と題された詩なのです。「1936年12月3日」と日付が記されています。
初めの書き出しはこうです。(17頁)
私はうつわよ、
愛をうけるための。
うつはまるで腐れ木よ、
いつこわれるかもわからない。
戦前の「結核」は、まだ治療薬がなくて、治らない病として恐れられていました。
神谷さんは、御自分を「うつわ」と名付けて「まるで腐れ木よ」といわれる。「いつこわれるかもわからない」と。
やはりこのうたは、全部お読みします。
はじめから、全部読ませてください!
(つづく)