「神戸の部落解放運動ー同和問題は何処まで解決したか」(第2回)(1993年、神戸市立平野中学校)


今回は第2回目です。神戸の場合、部落問題の解決という歴史を振り返りますと、いくらか我田引水かもしれませんが、運動も行政も教育も、ほんとうに独自な歩みを刻んできたことを、誇りに思えてまいります。


しかし、意外とそのことを精確に知る人は少ないようです。ご縁があって、長い間神戸市外国語大学での学生相手の講義では、そのことに立ち入って話してきましたが、学校現場の先生方も、知る機会が少なかったのかもしれませんね。


続きを掲載する前に、写真を1枚入れて置きます。これは昭和48年8月に「神戸市同和対策長期計画完全実施市民大会」の時のものです。




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          神戸の部落解放運動(第2回)


          同和問題は何処まで解決されたか


          19993年 神戸市立平野中学校


   (前回につづく)


   1 神戸の部落解放運動の特長並びに経過について



 早速ですが、第一の点です。今回お話をさせていただく「神戸の部落解放運動」というものは、私はできるだけ広い意味合いでこれをみさせていただきたいと思います。後でお話いたしますように、それは神戸の大きな特長でもあるからです。


 一般に「部落解放運動」と申します場合は、うんと狭く捕らえます。それは1922年(大正11年)に創立されました「全国水平社」を起点にして、戦後「部落解放全国委員会」として再出発をし、昭和30年(1955)に大衆組織として「部落解放同盟」に改組発展していった、特定の「部落解放運動」をさします。


 この運動は、さらに「同和対策審議会答申」がだされる昭和40年(1965年)あたりから、運動内部の亀裂が生れて、昭和45年(1970年)に現在の「全国部落解放運動連合会」ができていきます。そういう狭い意味で「部落解放運動」を捕らえるわけですが、私はここでは、もっと広い意味でこの言葉を使わせて頂きたいと思います。


 ついでですので、ご参考までに現在国のレベルでは、同和関係団体として総務庁や各省庁が対応していますのは、「部落解放同盟」「全国部落解放運動連合会」、それと「全国自由同和会」という3団体です。


 「全国自由同和会」というのは、皆さんは馴染みがないかもしれませんが、かつて「全国同和会」として活動していて、これは自由民主党の系列のもとにあって、地域のなかでも保守的な住民運動を代表するもので、兵庫県下でも地道な活動がなされてきました。


 この団体は、しかし或る時点から腐敗利権がからんで内部分裂がおこり「全国自由同和会」として再発足した団体です。この組織は現在、兵庫県には存在していません。


 それ以外の「同和」を名乗る団体は全国に数百に上るといわれますが、国も県も「エセ同和団体」として警戒し、それらを排除しているのが実態です。神戸にもそうした利権と暴力を伴う団体が行政などに押しかけてきたことがありましたが、毅然として排除してきた歴史があります。


 私がここで、広い意味での解放運動と申しますのは、特に神戸の場合を考えます場合、重要なのです。神戸においても「水平社」運動はそれなりの活動を続けてきましたけれども、例えば明治の終り頃から、市内の同和地区のなかから自治的な改善団体―私たちの番町では「長田村一部協議会」、宇治川では「清風自治協議会」など―が生れて、いわゆる「融和事業」が取り組まれて来ました。


 ですから、ここで「神戸の部落解放運動」と呼びますものは、こうした地域住民のなかの自治的な活動を重ねてきた自主的な住民運動を含んでいます。そういう視野を持たなければ、特に本日申し上げようとする「神戸の解放運動」は解けないのではないかと思うからです。


 とりわけそれは、いわゆる「同和対策」が本格化してくる1960年代後半から20数年間は、神戸では現在まで各種の住民組織が一致協力して、部落問題の解決のために取り組んできた貴重な歴史があります。


 もちろん、狭い意味での「部落解放運動」は、神戸にも1960年代はじめから「部落解放同盟」という組織としてスタートしています。のちにこれは「全国部落解放運動連合会」に組織変えをしていきますが、昨年はその30周年を記念した集会が持たれました。


 先生方もご承知のように、神戸の場合、1969年(昭和44年)の特別措置法の成立を受けて、神戸市の同和教育なり同和行政が組織的に取り組まれ始めてきます。そして1971年(昭和46年)には、神戸市内全地域の総合的な実態調査を実施しました。これが何といっても、神戸においては大きな出来事でした。それをもとに「神戸市同和対策協議会」が出来て「長期計画」が策定されていったのです。


 実態調査並びに「長期計画」の策定には、地元自治組織である神戸市同和促進協議会と当時の運動団体である「部落解放同盟神戸市協議会」が加わり、計画の完全実施を求めて大会を共同開催するなどいたしました。


 また神戸では県下各地の運動とは異なって、1974年のあの八鹿高校事件を契機にして、「部落解放同盟」は「全国部落解放運動連合会」に組織がえをおこない、同和促進協議会と共同歩調をとって、神戸の問題解決の取り組みに当たってきました。後に神戸にも新たに「部落解放同盟」の組織もできますが、神戸市同和対策協議会にも、地元のまちづくり協議会にも参加して、神戸の基本的な方向を受け入れて、ともに活動をおこなっています。


 これは全国的にも大変稀なことです。神戸では、他の自治体で混乱したような特定団体が同和対策事業を独占するいわゆる「窓口一本化」は無用でしたし、不当な利権や暴力などの問題もなしに進められてきました。


 全国各地で特定の運動団体が、学校の教育にたいして外部から介入する事件が頻発しています。先日も福岡の方で、学校現場への「確認糾弾」があって、校長先生が自殺をされるという事件があったばかりです。神戸にはそういう悲劇がなくて済んだ稀な自治体です。


 したがって神戸市では、同和対策協議会で基本計画を策定して、毎年総括を行ないながら、大事な節目には適切な「見直し」を行ない、物的な環境整備はもちろん、個人施策についても、大胆な検討がすすめられてきました。


 特に1980年代に入り、1981年の実態調査を踏まえて、部落問題の解決という課題に照らして、住民の自立と融合に役立たなくなった行政施策は段階的に廃止されていきました。


 教育行政に関わることは、先生方は良くご存知ですので説明は要りませんが、例えば、同和対策で最も基本的な住宅問題でも、改良住宅の家賃が余りに低料金に据え置かれてきた問題を適正化する課題に向かって専門委員会を設けて熱心に論議され、住民の合意を得て段階的に値上げ(適正化)が行なわれていきました。


 さらに1992年3月の国の法的措置が期限を迎えた時点をとらえて、神戸市の同和対策協議会は「神戸市における今後の同和行政のあり方について」という「答申」をまとめました。そこではこれまでの取り組みによって地域の住環境が改善されただけでなく、住民の生活が就労・教育など全般的に向上してきていること、またこれまで個人施策の見直しが進められてきたが全体的に一般行政への移行を検討していくことなどが強調されています。


 御存じのように、国の法律は昨年春で期限を迎えましたが、最終的に5年を期限に延長措置がとられました。この間に、国も自治体も最終的な終結を行なう段階に来ています。住民の自立に役立ち、問題解決に積極的な意味をもつ施策については一般対策へ移行させていこうというのが現在の神戸市の意向で、既に神戸市独自の個人施策の見直しはほぼ完了しましたから、現在残されている施策は、国に残されている施策が殆どになっています。


 例えば、同和奨学資金制度などがそうです。昭和56年につくられた「神戸市同和教育基本方針」についても、今年から新たに「部落問題解決の到達点を踏まえ、人権教育の一環として位置付け」られました。また神戸市の職員研修の基本方針なども、今日の時点にふさわしい方針に改められています。


 したがって、延長された法律も既に2年近くを経過しましたから、神戸における同和対策は「豊かな一般対策への移行」にむけて、丁寧な論議が進められているところです。