「宗教者と部落問題―在家牧師の神戸からの報告」(第10回・最終回)(同朋教学研修会、2000年8月)


今回の研修会の記録は、思いがけず長いものになりましたが、10回目の今回で最終回です。二日間にまたいで自由に話をさせていただいて、お聞きになる方は随分お疲れとおもいますが、お話する私の方は、なんとも心地よい二日間でした。ありがたい経験をさせて貰いました。改めてここに感謝の思いを記しておきたいと思います。



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          宗教者と部落問題(第10回・最終回)


            在家牧師の神戸からの報告


            2000年8月 同朋教学研修会


      (前回につづく)



         c 「拝跪」「癒着」にゆだねない


          「間のとり方」(連帯・相互批判)


「拝跪・癒着」にゆだねない!と書きましたが、部落問題の解決にとって、このことはとても大事なことでした。どの場合でも、「対人関係」でも各種の組織にあっても、相互批判・自由な対話と交流が求められます。とりわけ部落問題といった差別問題は、長くタブーにされてきました。見て見ぬふりをして、できれば避けて通りたい、係わりたくない問題として、相互批判を避ける傾向がありました。
 

特に、差別糾弾闘争は、逆批判を許さないような、一方的で独断的なやりかたで断罪がなされてきました。それこそ集団的な私的制裁と言われるものに落ちて行く例も少なくありませんでした。当時の部落解放運動は、中国の文化大革命の影響も強くうけていました。

解放運動は相手を見て糾弾闘争を組みました。例えば、骨のある思想家として知られる吉本隆明氏が解放同盟を批判したことがあります。吉本氏のコメントは実に冷静で常識的です。運動が過熱しているときは、こういう適切な批評が運動のためにも不可欠です。思想的な事柄に対しては思想的に、学問研究であれば、そのレベルで相互批判が進められる必要があります。しかし不幸なことに、運動の分裂が、研究機関の分裂になったり、党派的な対立として進んでしまう場合が出てきました。


              教団問題

宗教教団が、外部の団体から差別糾弾を受ける場合、どの場合でも、その特定に運動団体と「連帯」するかたちになって、基本的な部分で「教団の自治」が犯されることになります。運動団体と連帯行動を組んでしまう。「間」がとれないのです。


「点検・確認」まで外部団体からされつづけ、教団は内部の取り組みを運動団体へ「報告」する関係になる。「間がとれない」ことを「間抜け」などと言います。そこには、教団はトップダウンの研修を繰り返し、自由な相互批判など無縁のものになっていきます。


いま、皆さんの教団の内部で「真宗フリートーク」といった自発的な動きがあるようですが、「フリートーク」は誰もとめることはできません。教団トップや教団政治に責任をもつ方々にとっては、これまでの長い経緯がありますから、正常に戻すには勇気がいりますね。仕事柄私は、解放同盟の機関紙「解放新聞」を読んでいますが、殆ど毎号宗教団体の出来事が載っています。8月7日には「北海道教区と解放同盟本部との協議会」の記事が写真入りで大きく報道されていますね。
 

しかしいま、部落問題をめぐる状況は大きく変わってきています。部落差別問題は、現実問題としては、人々の関心は、かつてのような重要性を帯びていません。おそらく教団トップが、いくらこの問題を旗振りしても、現実はすでに「新しい時代」を迎えています。


             教学の検討


ただひとつ、仏教の関係で特に「宗教と部落問題」に関連して、広島の教区で長い期間をかけて「運動関係者と教団関係者」が共同の研究を重ねておられます。こうしたことが、全く自由な自発的な学習・交流の場であればいいと思います。しかしこれは「共同研究」の場というよりは、「確認・糾弾」の延長として延々と継続しているように見受けられます。


今回のこの研修の会は「同朋教学研修会」ですので、すでに自由に「小森竜邦の親鸞思想」(『解放理論と親鸞の思想』『宿業と精神主義』など)の検討など加えられて、自由な相互批判がなされることは有益ではないかと思います。小森氏の問題提起がそれとして的を射たものであれば、そこから学べば良いのですが、私の目には現在、真宗教学の学問的到達点は、小森氏をはるかにしのいでいるのではないかと思うのです。


研究者がただそれに迎合したり、沈黙したりして、教団政治レベルで「対応」しつづけるところに「教団の部落問題」が残っているのではないかと思います。
 

     むすびにかえて  21世紀につなぐ!


昨日から、貴重な時間を与えられて、長時間のお話しをさせていただきました。このような場でお話しをするような器ではありませんが、我慢をしてお聞き戴き、大変嬉しく思います。

私自身もいま、20世紀の最後のときを共に生きていて、あらためて密に「心に期すもの」があります。それは、皆さんと同じように、全ての人・全てのものの足元に届いている「大きないのち」(弥陀選択の本願・摂取不捨の大悲)を「受けて」、日々感謝、日々好日、無心に生きる! これも何度も申します延原さんから若い頃学んだことですが、旧い仏教用語で「受けて用いる」と書く「受用」という面白い言葉があります。この言葉は「人権の享有」という「享有」、英語ではエンジョイメントがあてられていますが、このエンジョイを「受用」と訳されていて、面白いと思いました。
 

一人の人間として活かされて、過去の一切の諸経験を「受けて」、受けたものを自ら「用いる」。「自己受用」する! これは、本来の意味で「楽しむ・満足する」ということであると同時に「貢献する・寄与する」という意味合いがあるようです。

 
時代を超えて、これまで我々が試行錯誤をしてきた20世紀も、これからはじまる新しい21世紀も、かわることのな「自由の現在」であり、さいわいなことに、全ての人のもとに、宗教を信じるものもにも信じないものにも、ひとしくはじめから、人が成り立つと同時に置かれている「全人生の基調」として置かれています。
 

ここをただ感謝して日々受けて、喜んでいきる! 「念仏者は無礙の一道なり」といわれ、「自然のことわり」(事理)「決定」を受けて、強くいきる! 「自由の現在」をいきる! 人間は「はじめ『自由であるべく促され・激励されている」!「自由の確かな根拠・根源」がある! 「絶対の平等」の基礎から、新しく歩み始めることができる!!


           「出合い」と「対話」

 
学生時代の頃から「出合い・対話」ということに、強い興味と関心を抱いてきました。今回の皆様との出合いも予期しないことでした。こうしな中で何か「お互いに通じ会うもの」を感じることができることは、とても不思議なことですね。
 

震災のあと、避難先で『対話の時代のはじまり』という小さなものを作りました。部落問題の解決の上でも、特に私たちの宗教界では、この問題で「自由な対話」をエンジョイする機運には程遠い状況が残されています。そこに何か「爽やかな風」を、「小さな窓」を開きたいという願からでした。これを書きながら、バックミュージックにしたのが、「君が明日に生きるこどもなら」という「うた」でした。


最後に、このうたを聞きながら、長い長いつたないお話しを終わることにいたします。長時間ごくろうさまでした、心から感謝申し上げます。