「宗教者と部落問題―在家牧師の神戸からの報告」(第9回)(同朋教学研修会、2000年8月)


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            宗教者と部落問題(第9回)


            在家牧師の神戸からの報告


            同朋教学研修会 2000年8月


     (前回のつづき)


           「精神現象」と「物質現象」 

 
ところで、《「閉じられた宗教の世界」に安住しない》ための、もう一つの知恵として、ここで指摘したいのは、これも滝沢先生や延原さんなどから学んだ知見ですが、人間存在の基本的な現象として、人間の「基軸」から成立してくる二つの現象、つまり「物質現象」と「精神現象」の区別と関係についてです。

 
これまでは、社会科学の上では、「物質現象」は物質的な土台を形成するものとして「下部構造」として捉え、その土台の上に「上部構造」としての「精神現象」、つまり意識的なイデオロギー現象をみる見方が一般的でした。「下部構造の反映としての上部構造」といった見方は、社会科学の常識のように受け止められてきました。
 

ところで部落問題を考える場合は、1965年の同和対策審議会の答申いらい、部落差別を「実態的差別」と「心理的差別」に分けて把握し、両側面を全体的に解決していく総合的な見方が提示さてきました。
 

こうした視点は、従来の差別を観念的な差別観念に限定する見方を脱して、現実の実態的な差別に視点を据えた解決方法を提起するものとして、それなりに説得的なものでした。したがって國のレベルでも、まず実証的な実態調査を実施し、その上で「実態的差別」の解決の方策を練り上げ、あわせて「心理的差別」の現状把握とその解決に向けた方向性が見えてきました。
 

ですから、この法的措置のもとで進められてきたこの30年余りの間の取り組みは、それまで放置されたままだったハード面、つまり「実態的差別」の解消にむけた諸施策が大きく成果をあげきました。そして現在残されているのは、主要には市民の中に残されているソフト面、つまり「心理的差別」の解消であるなどと、今日強調されるようになってきているのです。


住環境をはじめ仕事や健康、教育や福祉といった実態的な格差がここまで改善されてきますと、実際のところこれまで市民の間に残されていた差別的な偏見も急速に解消されてきていることが、どこの市民意識調査などでもはっきりと示されてきています。

 
ただ、私の率直な感想を言わせていただけば、これまでの取り組みの中では、「心理的差別」の問題として運動側から一方的な「差別糾弾闘争」が積み重ねられてきたことはあっても、ここでいう「精神現象」の領域についての独自な掘り下げは、きわめて不十分だったのではないかと思います。
 

これは、解放運動という住民運動の限界というだけではなく、これまでの部落問題の解決にかかわる研究分野において、その多くは歴史学社会学憲法学、そして教育学などの研究者が積極的にかかわってこられて、哲学や宗教学といったいわゆる「精神現象」をあつかう研究者は極端に少なかったことは否めない事実ですね。 
 

したがって、「差別」というのは実態的な差別(現実)であって、心理的な差別は、基本的には実態を改善すれば自ずから意識の面も解決していくという、この側面にとどまって、逆の側面、つまり「精神現象」から、人間の意識・自覚といった側面から、独自に問題を解明して行くことができて来なかったのです。
 

しかし実際のところ、差別の実態がいかに厳しい中でも、「人間は平等である」「自由である」という、この「である」の事実性(原事実)に目を止め、この絶対に揺るぐことのない足場・土台が厳存することに目覚め、ここを踏まえて「差別の現実」を変革することに意欲し、こつこつと取り組んでいく。そこには単に「部落」の、「部落住民」のというだけではない、「万人共通の人としての基礎」がある・・というような「基礎視座」が、自分自身のこれまでの歩みを振り返ってみて、いつも大切にしてきたことだったように思うのですね。こうしたこの基本的な関心をバネにして、具体的な「部落差別問題」の解決を考える必要性を、ずっと考え続けてきたように思います。
 

つまり、現実の部落差別問題を解決していく上でも、私たちはこれまで、もっぱら「精神現象」である宗教的な領域の研鑽をとおして、「自由」とは何か、「平等」とはどこで言えるのかといった、いわば「人間の原点」「基軸」に直接関連する問いをたずねる中で、幸にもいくらか見えてきた事柄が、部落問題の解決の上でも、実はたいへん大切なものであることを確信させられてきました。
 

宗教は、この最も観念的ともとれる「見えないけれどもある」という消息に直接関わっています。この「隠れた原現実」から溢れ出ることはいのちを、言葉やあゆみの中で指し示そうとするところに、宗教者のとりえもあるのでしょうね。そして、私たちには間違いも多く、不十分な見方をしても、それに気付きもしないところがありますが、そうしたもの同士が、お互いに自由な相互批判のできる関係や場が生まれてきて、地道にボチボチと一歩一歩、歩むことが出来ている・・・。
 

人間はみな完全ではありません。お互いにちょぼちょぼです。地域で生活をはじめて、友達が自然にできてきます。子供会や自治会や運動関係者との関係が生まれてきます。そこで、自然に意見交換や相互批判は生まれてきますね。
 
 
「部落解放」といっても、それは決して単純ではありません。間違いや行き過ぎがつきまといます。「就職差別」の場合でも「差別」は許せませんが、だからといって「優先的に採用をせよ」という要求にはすぐにつながりません。「大学進学」にまだ格差があるからといって「優先入学」という要求がどこまで正当性があるかは疑問ですね。


「結婚差別」でも差別は許せませんが、この問題に外部から運動団体などが介入していくことには、場違いなところがあります。「同和対策で住環境を改善する」ことは大切ですが、だからといって、これまで共に生活してきた流入者や、国籍がちがうなどの理由で、その町から排除するようなことは、果たして問題の解決につながるのかどうか。


「差別があった」といって「差別糾弾闘争」という戦術が今、はたしてどれほどの正当性をもつものかどうか。たくさんの応用問題につきあたって、行きつ戻りつしながら、やはりそこには基本的なルール、踏み外してはならない厳しい原則に気付かされていきますね。

 
「みえないけれどもある」! 誰が見て居なくても「暴力」はいけない。私利私欲はだめ。差別に対しても、「単なる怒り」を移してはならない。ものの考え方においても、実践のし方に関しても、それぞれの地域は地域にあって、運動団体は運動団体として、行政は行政として、内部的にも、相互の間においても、自浄作用と相互批判の積み重ねが、いつも保たれていかなければいけないわけですね。


    (つづく)