「宗教者と部落問題ー在家牧師の神戸からの報告」(第6回)(同朋教学研修会、2000年8月)


この「同朋教学研修会」の折りの写真なども頂いていたはずですが、手元に見つかりません。中心になってお世話を頂いたお方は、大の珈琲好きの方で、自前の美味しい珈琲の自信作を、何度もお送りいただいたりして、長く交わりをいただきました。


            *        *



           宗教者と部落問題(第6回)


           在家牧師の神戸からの報告


    (前回につづく)


a 単なる「テーマ」や「義務」にしない


              「発見の喜び」  


まず第一の点です。私は、一人の宗教者として、いや一人の人間として、大事にして来たことがあります。それは何事にあれ「喜び」を「基調」にする、ということです。
 

「罪悪深重煩悩具足」のこの私が、なぜか不思議なことに「弥陀の本願に助けられて」いる! 「南無阿弥陀仏」! 絶対無条件の救済の事実(弥陀の本願によって受け入れられている事実)を有り難く受け入れる。(受容の受容)
 
 
宗教の基礎には、この「発見の喜び」を促す力があります。
「幸いなるかな」!という祝福の掛けられて人はいません! このわたしでさえ! 
この「驚き」! この「底抜けに明るい・万人共通の基礎」へと、心身が「開かれる」。
そこに、自己の頑固な暗闇・罪悪深重の懺悔・悔恨と共に、「感謝と喜び」がわき出る!

 
もちろん「発見の喜び」は一方的に賜ったものです。こちらの「喜び」を頼みません!
よく知られているように、そこを「妙好人」の「才市」は申します。
「おまえのよろこびをあてにするな。喜びは消えて逃げる。」
 
 
仏教の称名は「南無阿弥陀仏」! 「寝ても起きても、行住坐臥に南無阿弥陀仏。働きながらも南無阿弥陀仏」「仏の慈悲を喜びながら南無阿弥陀仏。恥ずかしく思いながら南無阿弥陀仏。喜びながら南無阿弥陀仏

キリスト教の称名は「インマヌエル」! 「神我らとともにいます」!

 
この「発見」は、万人の共通の事実・真実ですが、「宗教」がただ宗教に「住する」場合が起こります。私はよく「宗教の基礎」ということを申します。宗教には必ず基礎がある。その基礎を見失うとき宗教は堕落すると。大事なのは宗教の「基礎」、万人共通のいのちの「基礎」である。この「基礎の発見」の喜びが「新しい思惟」「新たな認識」「新たな信仰」である、としています。

 
私の場合、高校時代にキリスト教と出会い、牧師になるために神学部へ進みました。そこでの私の切実な問いは「なぜキリスト教は独善的になりやすいのか」というものでした。
それは、「イエスがキリストである」という肝心要の理解にかかわる根本的な問題でした。「キリスト教絶対主義」をどう乗り越えるか。それが問題でした。

 
これは何も宗教者にかぎりません。先日、上田三四二の『この世この生』を読みました。(『俗と無常−徒然草の世界』のあとに) そこで、私の好きな「良寛」のことが書かれていて、上田さんは、ご自身の病気と重ねて、漱石明治43年8月のあの修善寺での病気について『思い出す事など』で書いていたことばに注目していました。
 

漱石は、あの病気の時に、「病に生き返ると共に、心に生き返った。余は病に謝した」といいます。「今までは手を打たねば、わが下女さえ顔を出さなかった。人に頼まれなければ用を弁じなかった。いくらしようと焦っても、整わないことが多かった。それが病気になると、がらりと変わった。余は寝ていた。黙って寝ていただけである。すると医者が来た。社員が来た。妻(さい)が来た。しまいには看護婦が二人来た。そうしてことごとく余の意志を働かさないうちに、ひとりでに来た。」「仰向けに寝た余は、天上を見つめながら、世の人は皆自分より親切なものだと思った。住みにくいとのみ観じた世界にたちまち暖かな風が吹いた。」
上田さんは「漱石は、世間と和解する」と言われます。

 
しかし漱石は、このあと大正3年の暮れ『こころ』を書き終え、有名な「私の個人主義」の講演をして「自己本位」に目覚めた経緯を語り、さらに翌年大正4年1月から2月に『硝子戸の中』を書き上げたあと、『道草』を書くまえ、漱石の根本的な転回(心機一転・目覚め)がありました! 


そして未完となった『明暗』を書いて、「則天去私」という有名な言葉を残して、五〇歳でその生涯を終えます。上田さんのいわれる「世間と和解」だけでなく、其の後晩年の漱石は、幸いなことに「自らとの和解」があり、「天との和解」があったのだと思われます。

 
私は、ご縁があって、青春時代に神戸の下町で生活を始めることになりましたが、実は私たちにとって、「喜びの表現」がこういう歩みを促していました。「存在の喜び」ですね。実践はその溢れ! 実践主義ということではありません。

 
当時、キリスト教の関係者でも同様の試みをはじめておられる方々がありました。東京の山谷では、伊藤之雄先生。京都の七条では小笠原亮一先生。ご当地では、「筑豊の子どもを守る会」などで同志社関西学院の学生が出向きました。上野英信さんは炭坑労働者として働き、当時は「廃鉱」に住み着いておられました。それぞれ、個人的なモチーフの違いがありますが、私たちの場合、それらの方々とはまた違ったものでした。

 
我々の心のうちは、秘め事のようなことでしたので、「牧師がへって、ゴム工員がふえただけ」とか・・。昨日のテレビの制作者は、私たちの新しい生活を「教会・教団への反発・失望・抗議」と捕らえていました。私たちは、単なる抗議や反抗で、あのような歩みを始めた訳ではありません。やはりふつふつと、あふれ出すもの突き動かされて、「喜んで」そうしたわけです。
 

「部落への伝道」「部落対策」として情熱を傾けている方は、我々にそういう期待を掛けられました。財政的なサポートを申し出られたりしてですね。しかし私たちは、「地域で普通の暮らしをする」「ひとりの人として生きる」「そこで、自然にであう」 それを日々の楽しみにするというものでした。

 
先ほど、上田さんの「良寛」にふれましたが、先日、講談社ででた『日本のこころ』(天の巻・地の巻)を読んでいて、「天の巻」に入っている新井満さん(芥川賞を受賞)の「良寛」も興味深く読みました。
 

今年新潟で「良寛没後170年祭」に因んで国際シンポジウムがあって、新井満さんはそのときのシンポジストの一人でした。新井さんは書いておられます。良寛の生き方・良寛の世界は、「こだわりをすて 日々をたのしむ」(宗教的な生活・心の平安と芸術的 生活・生きる喜び)ものであると。
 
 
私は常々おもいます。ひとりひとり、違う。ご縁があって、私たちは、こうして歩んでいますが、「みな部落問題に係わらなければならない」というようなことを考えません。
 

ですから、教団でこの問題は重要だからといってトップダウンで、テーマを追いかけるやり方は、どうかと思います。教団は、外部からの糾弾などあれば特に、部落問題が「義務」となり「テーマ」となって、引きつった義務感から「反省の記し」として「具体的な実践」を促そうとします。
 

私は、若いころから、西田幾多郎の作品が好きですが、彼の有名な言葉の一つに、こういう言葉があります。彼がすでに69歳になった昭和14年に『哲学論文集』第3巻を岩波で出しました。その序文の最後の言葉です。


「私は誰も私の如き問題を問題とすべきだとは言わない。しかし問題の対象を新にすることは、直ちに思想を新にするのではない。また問題が具体的だということは、直ちに思想が具体的だということにはならない。」

 
それぞれの機縁を大事にする。テーマを追うのではなく、自分にとって、ごく自然に、必然的になることに、喜んで係わり続けることで、それで十分だと思っています。