「宗教者と部落問題―在家牧師の神戸からの報告」(第4回)(同朋教学研修会、2000年8月)


この不十分な講演記録は、わざわざご覧いただくには気がひけます。
しかし、私にとって、この時の二日間の、僧職の方々との交流のときは、忘れがたいものでした。記録は、一方的なお話の記録ですので、どうにもなりませんが、・・・。


ともかく、第4回目をここに収めて置きます。



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             宗教者と部落問題(第4回)


            在家牧師の神戸からの報告


     (前回の続き)


        b 地域の変化――1960年代以降


さて、私たちが神戸の下町で新しい生活をはじめた1968年から、早くも32年もの歳月が経過しました。丁度この30年余りの期間は、全国的に部落問題の解決の歴史とぴったり重なっていました。ご当地でも多くの出来事を刻んでこられたと思いますが、私もこの30年あまり、地域の抱えて来た諸課題の解決のプロセスを、身近な事としてしっかりと体験させていただきました。


いま丁度2000年で大きな節目ですが、簡単にこの30年の歩みを振り返ってみて、神戸からの報告とさせていただきます。神戸の場合は、他の地域とは少しく特殊な歴史を歩んできるところもあると思いますが、この30年間はおよそ10年きざみに区分できるように思います。 



     70年代の集中的な取り組み 実態調査 計画策定と実施


大雑把な区分ですが、最初の10年は、部落問題解決の集中的な取り組みの期間でした。
1969年(昭和44)には、初めての特別措置法が策定され、10年間の時限立法として施行されました。この法的措置に基づいて関連する自治体はどこも一斉に、問題の解決のために本腰をあげていきました。


神戸市の場合は、1971年に本格的な実態調査を実施し、神戸市内の指定された「同和地区」の全世帯を対象に総合的な成功させます。そして総合調査の結果を踏まえて、1973年には「長期計画」を策定して、総合的・年次的・地域的な計画を練り上げてスタートさせました。このスタート時点の取り組みが、神戸の場合、大きなステップになって、この1970年代の期間は、地域の住宅をはじめとした環境改善事業が急速にすすみ、個人施策も一気に増えて、生活・福祉・教育その他、これまでの差別的な実態が大きく改善されていった時期となりました。


ただ、残念なことに、特別法がでる段階で、全国的な部落解放運動は分裂して、地域によっては未熟とも言える「差別糾弾闘争」が展開され、兵庫県で起きた「八鹿高校事件」(1974年)を頂点にして、時として運動が暴力化したり、同和行政の不公正・不正常な問題も表面化していきました。運動が利権に走ったり、兵庫県内でも運動団体の「窓口一本化」の問題で裁判が起こされたりしました。
幸いに神戸の場合、神戸市の行政も市内のそれぞれの地域においても、そうした混乱に巻き込まれることなしに、独自な歩みを進めてまいりました。ですから、この10年間は、地域の実態が急激に大きく変貌を遂げて行った10年でした。


10年の期限がつけられた同和対策事業特別措置法も期限切れを迎え、多くの議論があって、結局この最初の法律は、その後1981年まで3年間の延長を見たのです。


最初の法律を最大限に活用した自治体として有名なのは、和歌山県吉備町の「夜明をめざした取り組み」で「ドーン計画」と呼ばれました。この町は戦前からの地道な実践の積み重ねもありましたが、地域の人たちは毎晩のように話し合いを重ねて、地域のなかに建つお寺が寄り合い場所になって、町の計画を作りあげていきました。


この法律のあるうちに、つまり10年間のうちに一気に、ブルドーザーを入れて「新しいまちづくりをする」という意気込みも熱く、「差別される部落民のいないまちをつくる」という合言葉をもって、「持ち家」政策を基本にした環境改善をすすめました。ですから、この町は基本的にはこの時点で、基礎的な環境改善事業の取り組みは仕上がっていました。


神戸でも、神戸市に同和対策協議会ができて、吉備町への視察などを繰り返しましたが、なにしろ大規模の地域を抱えていて、吉備町のようには進捗はいたしませんでしたが、それでも神戸では、1971年調査の10年後「1981年調査」を実施して、生活の改善状況を把握しました。


それに基づいて、それまで進めててきた施策について、ひとつひとつ「見直し」作業が行われて行きました。「すでに目的を果たした事業は直ちに廃止」し、「まだ暫く必要な施策は段階的に解消」して、「当分必要なものは継続」というような区分をしながら、検討が行われていきました。
 


    80年代の「見直し」作業 解決への展望 家賃適正化


この80年代の「見直し」「終結へ」の取り組みで、地域の中で最も論議を生んだのは、地域に立てられた公営住宅(改良住宅)の「家賃の適正化」の取り組みでした。


最初の60年代から70年代の段階では、放置されてきた劣悪な「差別と貧困」の生活環境をひとつひとつ改め、人間の尊厳を確保できる生活環境をつくりあげるために、「低家賃の住宅保障」を模索しました。それが最初の「部落問題の解決」の目標でもありました。


しかし、1970年代の行政・教育・運動それぞれの取り組みの中で、早い段階で「部落問題の解決とは何か」という問が、真剣に議論されていくようになりました。

神戸の場合、部落解放運動は1974年の八鹿高校事件のあと、それまでの部落解放同盟という団体から組織的に脱退をするということもあって、解放運動団体などによる差別糾弾闘争の戦術がなくなっていきました。そして、この時点で改めて「解放運動とは何か」「同和行政とは何か」「同和教育とは何か」についての吟味検討が続きました。


結局この激動期の1974年の春には、いわゆる運動や行政などから独立した民間の研究機関として、「神戸部落問題研究所」という調査・研究期間が創立されていきました。次々と起こる諸課題を自由に検討する場ができたのです。神戸市行政からの委託研究を受託しながら、歴史・運動・行政・教育などそれぞれの専門家や実践家などが集まって、活発な活動が機能し始めました。私自身も設立の準備の段階から加わり、裏方の仕事に打ち込んでまいりました。


その頃に取り組まれたことのひとつが「家賃の適正化」というものがありました。
特別の研究会をつくり、「家賃」とは何かの論議から、改良住宅と一般公営住宅の家賃格差がありましたから、どのように家賃を適正化するか、つまり同和対策の住宅の家賃を適正に値上げすればよいのかを検討する作業がはじまっていきました。当時の象徴的な大切な取り組みのひとつでした。


部落問題の解決というのは「住民の自立」「近隣との整合性と格差を是正して交流を促すこと」「行政依存的な体質を改めて行く」ということなどが欠かせないのではないか、といった議論が次々と提起されていきました。


国の段階でも、同様の見直しがすすみ、奨学資金制度も「給付から貸与へ」という流れも出てきました。ですから、13年間継続した同和対策事業特別措置法は、この段階(1982年度)で名称のうえからも「同和」が消えて「地域改善対策特別措置法」へと変更になり、1982年から86年までの5年間の時限立法として成立していきました。


さらにこれは、87年度から5年間1991年度まで「地域改善財特法」(地域改善対策特定事業に係る財政上の特別措置に関する法律)として施行されていくのです。



           90年代の終結をめざして


そしてさらに1992年度から5年間、この法律は延長され1996年度まで続きました。
これで、政府レベルでは、基本的に事業は終結して、すでに事業を計画実施している15事業のみ限定した財政的な経過措置を行うために、財務整理の法律がまだ97年度から2001年度末、つまり2002年3月末まで継続しているのですね。


ご存じのように、行政上の措置としては、こうした経過がありますが、同和対策事業の終結と並行して、新に「人権教育・人権啓発」の課題がクローズアップされていきました。


1996年12月の段階で、「人権教育の国連10年」の国内行動計画の中間まとめがおこなわれ、つづいて同じ12月に「人権擁護施策推進法」が成立し、翌年1997年3月に施行されます。それで、97年度から「人権擁護推進審議会」が法務省の主管で設置され、ここで昨年7月(1999年)「人権教育・人権啓発に関する答申」がまとめられ、現在この審議会で「人権侵害の救済に関する答申」を来年度まとめるために検討が重ねられています。そして現在は、「人権教育・啓発推進法」の制定をもとめて、取り組みは進められています。


  
              震災体験

神戸における部落問題の解決の歩みを、法律的な流れに即して概略お話しをいたしました。「神戸からの報告」をさせていただくのに、あの「大地震」の経験を抜かす訳にはまいりません。ただ、あの出来事を話し始めると、それだけで一杯になります。


皆様にも沢山のご支援をいただいた1995年1月17日に発生した「阪神大震災」の経験は、部落問題との関連でも大きな出来事でした。先程も申しましたように、神戸市では基本的に同和対策事業は其の時点ではほぼ完了をしていました。
 

被差別部落と震災」ということでは、従来のマスコミの見方であれば、あの大震災を経験した神戸で、都市部落として市街地に8つも大規模部落が存在してきましたから、同和地区の被害は際立っていただろうと思われるのも自然です。


実際に、国際的な活動を活発に進めているあのグリンピースの皆さんなどはあのとき、神戸の被差別部落が大変だといって外国にも救援を呼びかけました。其の呼びかけの内容があまりに時代錯誤なもので顰蹙を買い、神戸市長がそれに抗議するということもありました。あのような時は、マスコミ関係者も、厳しい差別が存在する中での被災者の現実! などと書き上げることで、記事にしやすいようですが、そういう記者の方が国内外に多く見られました。
 

国連の人間居住会議(ハビタット2)があり、そのレポートを書く機会があり、そのときにも考えさせられたことですが、ふつうこれまでの常識では、大震災などあれば、まず「被差別部落」に被害が集中するであろう、という見方があるのも避けられないところがあります。


しかし、これまでお話ししましたように、部落問題の解決の歴史からみますと、1960年代から以降の30年間というのは、地域を一変させてしまっているわけですね。


1995年1月17日の大地震は、決して1960年代の地震ではありません。もしも1968年にあのような震災に遭遇すれば、今こうして生きていることはなかったでしょう。


今回の大震災ではもちろん多くの被害を受けました。しかし、其の被害は、周辺地域の比較すると、比較的に少なかったのです。
 

私の地域は、公営住宅が5棟、500人余りが住めなくなりました。そして公営住宅が建設されなかった、比較的良住宅のところが、軒並みに破壊されて、42名が亡くなりました。
しかし、私の住宅のすぐ近くに「菅原商店街」がありました。その周辺は、震災の当日から火災が発生して、広範囲にわたり焼け焦げてしまい、多くの死傷者もだしました。


したがって、震災復興のまちづくりの方法についても、かつてのような「同和地区」だけ特別におこなうという形はありませんでした。震災は、「同和」とか「部落」という垣根のないことを、あらためて知らされた出来事でした。



    「最終段階を迎えた部落問題」(共同型の運動の展開)

神戸においては、同和対策は基本的には完了しています。もちろん地域の課題は、次々と出てきます。例えば、住宅なども旧い住宅は立て替えの時期を迎えていて、いわゆる住戸改善が必要です。それらは、エンドレスの取り組みですね。


同和対策事業がおわっても、街づくりの取り組みとして、仕事のこと、高齢者福祉のこと、子どもの教育のことなど、山積みされています。これらは「同和対策」ではなく「一般対策」で進められています。


神戸ではすでに10年以上も前から、「同和」の枠組みをはずした「新しい共同型の運動」として、1988年ごろからですかね。準備段階をいれるとさらに前から取り組まれて来ました。当時、「教育文化協同組合」「中高年雇用福祉協同組合(労働者協同組合)」「住宅まちづくり研究会」などが次々とスタートしました。
 

部落解放運動も、神戸のこうした方向性を促す力になってきましたから、「部落解放」とうスローガン自体が、内容の伴わないものになってきて、名称もふくめて、大きな転換点にたっているのが現状です。


以上が、私の見た「神戸の部落問題」のこれまでと現在です。雑駁なお話ですが、大まかなところ、そういうことですね。