「宗教者と部落問題ー在家牧師の神戸からの報告」(第3回)(同朋教学研修会、2000年8月)


今回のところで触れている東京12チャンネル製作の「ドキュメンタリー青春」のシナリオ表紙をUPしてから、第3回に移ります。




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          宗教者と部落問題(第3回)


          在家牧師の神戸からの報告



      (前回につづく)


           「一在家牧師」について


     (「在家」から「出家」、「出家」から「在家」)


ところで、サブタイトルに「一在家牧師」ということをいれました。仏教では「在家仏教」ということは使われますが、キリスト教では「在家キリスト教」というのは、私たちが提唱しているだけで、いまのところまだ一般的ではありません。まして「在家牧師」などという言い方も、ほとんどいたしませんが・・・。私たちの場合、もっと正確には「在家労働牧師」といった方がいいのですが・・。


先ほど申しましたように、1960年代に学生時代を過ごしました。
当時、マルチン・ブーバーの名著『我と汝』がひろく読まれたり、昨年神戸にドイツの元大統領のワイツゼッカーが見えましたが、ドイツの戦後復興をになったドイツ・アカデミー運動(これは日本では「話し合い運動:ターグング」といって「出合い・話し合い」をとおして、「新しい社会づくり」を推し進める運動)が、注目を集めていました。


また、1960年代はカトリックが大きく変貌を遂げる時でした。第2バチカン公会議が開催されて、キリスト教が仏教と「対話」をはじめる時とも重なりました。
 

今回は、詳しく立ち入れないのが残念ですが、私にとって学生時代から、大きな影響を受けた先生に、ご当地福岡にあって九州大学で哲学を講じておられた「滝沢克己先生」がおられました。


「仏教とキリスト教」の「対話」という分野では、滝沢は1950年段階ですでに大きな仕事をはじめておられました。この「対話」ばかりでなく、私にとっては、「キリスト教はなぜ、独善的になるのか」という私の問いにもつらなる問題を、私は生まれる前から、20世紀の代表的な神学者と言われるカール・バルトとの対話をとおして学問的な思索を継続しておられました。滝沢克己の著作との出会いは、6年間の大学生活で学び得た一番の収穫でした。


そのおかげで、独善的でないキリスト教のあり方を多少ともみつけて、牧師の道を歩み出すことができました。ですから私にとって、大学を卒業するときの「教会」のイメージは、「出合いの家」というものでした。


神戸の教会に招聘されてから、私にとって大事な二つのこと――一つは「家の教会」の面白さ。もうひとつは「牧師の労働」の大事さでした。


短く説明をいたしますが、「家の教会」ということは、当時、神学の分野で「オイコス」という「家」の教会に注目があつまっていました。「教会」のメンバーは、広範囲から日曜日に礼拝にこられます。それはそれでいいのですが、もっと日常的に基本になるのは、それぞれの地域のなかでお互いに出会い、語り合い、生活の中の喜びや悩みを分かち合える「家の教会」が求められるのではないか、というものでした。


当時まだ地域の中に、バラックのベニアで囲まれた家で暮らす人々がありました。そこでわざわざ着飾って日曜日の教会に集まることのできない人も、そこなら気軽に集えて、語り合える・・。そういう「家の教会」の経験は得難いものでした。


もうひとつの「牧師の労働」については、すでに私の先輩で、延原時行という人がいました。数百人の礼拝をしていた大きな教会の牧師であった彼が、1964年からこれまでの教会をやめて「土方」をはじめ、「楽しい聖書研究会」を始めると言って「兄弟団」という「新しい実験」をはじめていました。


私が神戸に来たときは、すでに彼はその歩みを初めていました。神戸に来てすぐ、彼の呼びかけもあって、「牧師労働ゼミナール」という企画が実施されました。牧師たちが、10日ほど共同生活をして、毎日零細企業に働きに出掛けて労働体験をして、夜は食事を共にして、遅くまで聖書研究や意見交換をする。実に愉快な経験を、その年と次の年と2度にわたって実施されました。「労働牧師」のかたちは、実に新鮮なものでした。


ふつう牧師は、あくまでも「教会の牧師」であって、生活は教会の信徒からの献金(仏教では「喜捨」といういい言葉がありますが)で支えられる。牧師の労働(職務)は、教会における説教と信徒の世話(牧会・ミニストリー)がもっぱらで、その外の働きはアルバイトという見方ですね。


私たちの場合、先ほどの延原さんの「兄弟団」という「楽しい聖書研究」にも刺激を受けて、私は、「労働牧師」のかたちで「出合いの家」を始めて見たいという、新しい「夢」が宿りました。カトリックの司祭が「労働司祭」として労働者になるという興味深い試みもありましたし、当時強い影響を受けたのは、戦前のフランスの思想家・シモーヌ・ベイユの『工場日記』が翻訳されたりいたしました。


私たちは(相方も牧師で、当時二人の娘の子育て中で、私は同志社で学び、家内は関西学院の神学部で学びました)「新しい夢」は、これまでの「教会」という枠組みの、さらに「基礎」を構成する「在家」のレベルで、「喜んで信じて生きる!」というものでした。


明日の朝、少し改めてお話しをして見たいと思いますが、私たちの生活の基調となったのは、「在家的に生きる」というところにありました。「在家」と「出家」。「在家」から一度「出家」する。「出家」をしてさらにそこを「出家」する。「出家の出家」ですね。


「在家的に信じて生きる!」 日々喜んで生きる、その「長い道の途上で」、私たちは「部落問題との出会い」がはじまったのです。


さて、こうして1968年の春から「新しい生活」がはじまりました。日々部落問題の解決に関わることになります。以来、早くも30年余りが過ぎました。ですから、10年一昔といいますが、30数年前のこととなると本当に「今は昔」の昔話ですね。


時間をたくさん戴いていますので、今回は特別に昔の「白黒ビデオ」をご覧いただこうと思います。ドキュメンタリーといっても、製作者の視点と、取り上げられる現場の視点とは、決して同じではありません。これまで申し上げてきたような、私たちの志しとは、トーンが随分違って居ることを感じられるとおもいますが、まずは、ご覧いただきます。


特別法ができる前ですから、地域の人達も私たちが取材を断っていると、問題を地域から訴えるのはよいチャナスだから是非応じてほしいという声に押されて、こういうことなりました。(関西ではこの番組は放映しないということも、少しは気が楽でしたが・・)


これにはフォークシンガーの岡林信康さんが自主協力してくれました。彼は同志社の後輩になります。当時まだビデオのない時ですので、記念にフィルムをいただいていましたので、消えかかったフィルムを友人がビデオにしてくれて、なんとかこうして見る事ができます。 では、これは30分番組ですので、これを見て暫く休憩やご質問などで・・・。


      東京12チャンネル「未解放部落からの出発」


    (つづく)