「宗教者と部落問題ー在家牧師の神戸からの報告」(第2回)(同朋教学研修会、2000年8月)


早速、前回のつづきを収めます。



           宗教者と部落問題(第2回)


           在家牧師の神戸からの報告


a 部落問題との出合い


私はいまちょうど60歳です。先ほど申しましたように鳥取県関金町という田舎の小さな温泉町で、高校卒業まで過ごしました。


ところで、今日では「同和地区」と言う言葉も、いわゆる同和対策の法的措置が終わろうとしているこのときに、この言葉もたいへん用い方は難しい用語になっています。かつては「未解放部落」と呼ばれ、同和対策が本格化する過程で、「地区指定」が不可欠となり「同和地区」という行政用語として「同和地区」という言葉が一般化してまいりました。


国レベルでも早くから「同和地区」の数や戸数・人口など、何度も調べを行ってきましたが、数年前の調査が事実上最後になりました。法的措置が無くなれば、敢えて「同和地区」と指定する必要がありませんから、おそらく今後は、この間「同和地区」と呼んでいたことを文字にする場合は、旧同和地区とかカッコをつけて「同和地区」と書くようにするのが適切かと思われますね。


そうしたことは今後のことですが、歴史的に「同和地区」と言われる地域は、北海道や沖縄にはありません。なぜか近畿中国地方に多く、ご当地九州、なかでも福岡県は府県別にみましても、地区数(617)・人口(24万近く)ともにトップです。私の育った鳥取県は107地区・人口3万近くですね。


私たちのまちにも「同和地区」があって、小学校時代からの親しい友達もいますが、私が「部落問題」というものを学んだのは、ずっと後のことです。1958(昭和33)年に倉吉東高校を卒業して、牧師になるために京都の同志社大学神学部に入ってからのことですから。それまでは、学校でも家庭でも、この問題について深く学ぶことはありませんでした。
 

1960年ですね、あの「60年アンポ」のときに、有名なドキュメンタリー映画『人間みな兄弟』ができました。「ここに道がある・・」という当時のNHKの人気アナ・宮田輝さんのナレーションの入った、1時間ほどの白黒の映画ですね。あのフィルムには、近畿地方、特に奈良・和歌山・京都・大阪の「同和地区」の姿が、実にリアルに映し出されておりました。世界的なドキュメンタリー作家でもある亀井文夫監督の作品です。それを神学部の寮で先輩が見せてくれました。


仏教界でもすでに当時、部落問題の解決に向けた取り組みはあったと思いますが、キリスト教界でも、自主的にキリスト者部落対策協議会という組織をつくるなどして、この映画の上映運動などにも取り組み、それが一定の広がりを見せていました。


「60年アンポ」世代に学生時代を過ごしましたが、当時ご当地では炭鉱の閉山があいついで、「筑豊の子どもを守る会」など作られて、夏休みなどは、同志社関西学院の神学部の学生たちも多く、こちらへ出掛けていました。クラスメイトだった犬養君などは、それ以来の関わりですね。ずっと彼は、こちらで働きを続けています。


わたしは「筑豊」へは参りませんでしたが、大阪の西成教会と日本橋のところにあった「愛染橋病院」といって、孤児の救済事業に打ち込んだ石井十次を記念した病院が建てられ、そこの子供会の活動に、毎日曜日に京都から出掛けたりしておりました。


またあの当時、労働運動の盛り上がりもあったのでしょう、「学生労働ゼミナール」という面白い試みもあって、全国各地から色んな学部の学生たちが夏休みを利用して、一カ月近く労働体験をしながら、ともに食事をつくり、夜は「交流学習」をするプログラムにも参加しました。当時は、そういう時代でしたね。


6年間の大学生活のあと(1964年(昭和39)に卒業後)、最初の任地は滋賀県近江八幡ですが、2年後の1966年には、ご縁があってはじめて、神戸に出て参りました。その場所が、賀川豊彦の最初に献身した場所として知られる明治末のスラム「葺合新川」に建てられた教会で神戸イエス団教会というところでした。1960年に賀川はその生涯を終えていますが、没後3年後のそこの「賀川記念館」が完成して、その中にある教会でした。


皆さんは「賀川豊彦」のことは、いくらかご存じでしょうか。彼は神戸で生まれましたが、神戸の人でも「賀川」の名前も知らない人は、現在沢山います。幼いときに両親と死別して、徳島で幼少年時代を過ごし、徳島中学を卒業後、明治学院と神戸神学校で学びます。その学生時代に当時「貧民窟・葺合新川」とよばれたスラムに飛び込んで、そこから神学校へ通学するようになります。明治42年12月24日のことだといわれています。


神戸のまちは、明治以降開けた新しい港町です。開港以来、外国人の居留地がつくられ、屠場も設置されます。お茶・マッチ・ゴムなどで働く人々が混在する一大スラムがつくられます。かれは明治42年の暮れに住み込んで、数年間米国に留学の期間がありますが、再びここに戻って、ここを拠点として労働運動・農民運動・消費組合運動、さらには全国水平社の運動にも創立前後、西光万吉や阪本清一郎などと交流をもって一定の関わりを持つことになるのです。


そして大正12年9月の関東大震災の折りには、逸早く救援のために東京に移り、東京拠点としての本国内ばかりでなく、世界に出掛けて戦中戦後、平和運動や協同組合運動で大きな足跡を残した人物ですね。『死線を越えて』『一粒の麦』などの有名な小説をはじめ、『涙の二等分』などの詩集そのた多数の著作を発表し、人々の心を熱くさせてきました。ある時期には「近代日本を代表する人物」として、ガンジーシュバイツァーと並んで尊敬を集めた方だといわれる人でした。


私は高校生のときに、倉吉教会というプロテスタントの教会に行くようになって、そこで賀川豊彦について知り、驚いたわけですが、思いも掛けないことに彼の活動拠点に建てられた教会に招聘をうけることになったわけです。


私たちがここで働きはじめた時は、この新しい賀川記念館において地域福祉活動や乳幼児保育、そして教会の活動などが活発に積み重ねられていました。まだバラックが残りスラムの改善が進まない段階でしたが、普通の教会にはない独特の面白さがありました。


ここでの二年間の経験は短いものでしたが、私にとっては、其の後はじまる「新しい生活」の準備期間として大変重要な時でありました。


   (つづく)