『在家労働牧師を目指してー「番町出合いの家」の記録』(24)第1部「助走・探求の日々」第1章「結婚家庭と小さな家の教会」第2節「現代における教会の革新」(最終回)

今回で第2節の「現代における教会の革新」の箇所は終わります。


この節では、学生時代を含めて5年ほどの期間を過ごした滋賀県の琵琶湖畔の小さな家の教会「仁保・野洲」時代の写真を毎回収めてみました。


今回は、1965年11月に兵庫県の飯盛野にある「農村センター」において開催された関西5教区の「農村教会教職協議会」の写真をアップして置きます。クラスメイトの草刈さんと私たちがピッカピカの1年生です。どんな協議をしたのか、まったく記憶にありませんが・・。




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それからもう一つ、参考資料として、当時ガリ版印刷で、「出合いの家」という小さなビラをつくり、近隣のご家庭に手配りをしていました。ずいぶん広い範囲に出かけていたように思いますが、これは「No13」となっています。


他にも、次々と印刷して、話し合いの資料をつくっていました。元気いっぱいでした。




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          第2節 現代における教会の革新


            特に「礼拝のあり方」に関連して


  (最終回)

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われわれは「現代における教会の革新」なる主題のもとに、とくに「礼拝のあり方」に焦点をあわせて論究してきた。


事柄そのものが、キリスト教の中心問題にかかわるだけに、軽率な発言は慎まなければならないが、日ごろ考えている論点をできるかぎり率直に述べたつもりである。


われわれの試みもまた考えも、現代において働き給う御業への精一杯の参画として意味付けられることを願うものである。われわれのごとき考えを持つ人びとがほかに数多くあることを知っている。また反対にまったく受け付けていただけない人びともあることを知っている。


しかし、日本基督教団が、実に多くのバラエティーに富んだ大家族であり、相互に絶えず「出合い」と「話し合い」と「共同の証し」がなされようとしていることは、喜ぶべき事態であるといわねばならない。


最後に、上記の反復にならないように、以下のごとく結論的に述べておきたいと思う。


われわれにとってまず何よりも重要なことは、われわれが過去から自由であることの自覚であり、その受容である。そしてそこから今を生きる決意である。


われわれの教会は、その歴史的機構、制度、言語、礼拝、伝道すべてにわたっての革新が必要である。われわれの教会は、根本的な「方向転換」を要請されているのである。


そしてそのすべての背後に「キリストの主権」が確信されていなければならない。ボンヘッファーは言っている。

「この世はキリストと悪魔とに分割されているのではなくて、この世がこれを認めると否とにかかわらず、この世は全体としてまったくキリストの世界である。」


われわれは、現実の世界は神に気付かない教会であり、教会とはほんらい世界であるということを、たとえわれわれの日常経験に反しても信仰にある現実として確信しているのである。


福音は「セキュラー・イベント」(ホーケンダイク)であることと、「キリスト教の非宗教化」(ボンヘッファー)ということとは、われわれが今こそ真剣に受け止めなければならない事柄であるといわなければならない。


こんにち、人間性の回復の問題に熱情をかたむけて取り組んでいる友があちこちに存在している。われわれは、あるべき事柄を真摯に問い・求めて生きるなかで、共同の課題を見出そうとするところに「主は共にい給う」ことを信じるものである。


もとろん、現代社会はとうてい神とは無縁だと思われるところこそ、あまねく主は共にいたもうのであるが。キリスト者のいないところでも、神の御業は働きつづけているのである。


以下の、WCC第3回大会報告書のことばは、われわれに多くの励ましを与えてくれるものである。

「これはただのひとつの例に過ぎないが、しかし、教会がいかにして旅人となるうるかについて、重要な意味を持つ例である。すなわち、教会は、ちょうどアブラハムがそれまでの安住の地を後にして、恐れることなく未知の未来に向かって大胆に出発し、絶えず作り直されなければならないテントに住むことを喜びつつ、神の建て給う都を待ち望んだように、大胆に前進するときにこそ、旅人となりうるのである。」


筆者は、今春同志社を卒業し滋賀県の中央・琵琶湖畔の一隅にある農村教会・仁保教会に招聘されたものであり、関西学院を経て野洲伝道所に招聘された妻と協働の歩みを続けている。この拙稿も協働の産物である。若輩のわれわれに対して、皆様の適切なご意見とご批判を期待している。〔1964年10月2日記〕



    注記 (分割掲載のために注の箇所が特定できせん)

1 「世の光キリスト」WCC第3回大会報告書、51頁。
2 WCC関係のグループでは討論が継続されているのであるが、われわれの具  体的な個々の教会においては、今日ようやくその機運が高まってきた程度で  ある。過日(1964年9月27日)京都教区滋賀地区教会役員協議会で「礼拝  をなぜ守るか―その本質と実際」の主題のもとに草津教会の渡辺泉牧師の講演  と協議が行われた。注目すべきものであった。
3 WCC Division of Studies Commission on Faith and Order.   Fourth World Conference on Faith and Order.Montreal,july 1  963 この協議会の報告書のreprint を昨年在学中のエキュメニズムのコ  ースの時、竹中正夫教授の指導のもとに学びあったが、その中からの引用で  ある。Worship and the Oneness of Christ‘s Church.Part1.The  Nature of Christian Worship の中の2のa  
4 同上2のb  
5 同上2のc 
6 「ボンヘッファー選集」1、「聖徒の交わり」」(新教出版社、1963   年)194頁。 
7 1961年10月の第2回宣教基本方策協議会の結論として出された「日本基  督教団宣教基本方策」による。 
8 教団内の実情からすれば少し極端な例であるが、神奈川教会の礼拝があり、  少しニュアンスが異なるが宇野勇次牧師の試論もその好例であろう。(「礼  拝と音楽」9巻1号参照) 
9 この方向で極端な例であるが、上原教会〔赤岩栄牧師〕の場合が考えられ   る。 
10 たとえば、松木治三郎教授「新約聖書における礼拝」(「神学研究」第7  号,昭和33年,131頁〜168頁)のとくに166頁参照。 
11 ボンヘッファー 前掲書 41頁  
12 「世の光キリスト」WCC第3回大会報告書。42頁。(第1部、証しの  第3項のタイトル)。 
13 竹中正夫「世俗世界における教会の共同の責任」(「基督教研究」第33巻  第2号、昭和39年、7頁)。そこには「神の民の聖務」と関連して「信徒訓  練」「修練」について論じられている。  
14 われわれの試みの一端は<「出合いの家」の誕生>と題して「基督教世界」  (第3170号、昭和39年7月)に発表した。本稿では重複を避けるため一  部削除した。 
15 ボンヘッファー 「現代キリスト教倫理」選集Ⅳ、96頁。 16 「世の  光キリスト」。WCC第3回大会報告書、51頁。