『在家労働牧師を目指してー「番町出合いの家」の記録』(22)第1部「助走・探求の日々」第1章「結婚家庭と小さな家の教会」第2節「現代における教会の革新」(続き)

もう半世紀も前の、まことに未熟なドキュメントを、こうして公開しています。今日ではこういうものを冊子にして配布するなどすれば、問題にされてしまいそうな代物ですが、こうした実験も、当時は近隣の諸教会の牧師さんや信徒の方々と、熱心に論じあっていました。そのための一つのたたき台でもあったのです。


今回も、当時の小さな家の教会の懐かしい写真を収めてから、本文に進みます。
ご年配の方々も、若い青年たちも、楽しく集まっておられました。







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       第2節 現代における教会の革新


           特に「礼拝のあり方」に関連して


   (前回に続く)

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さて、以下にわれわれは、仁保教会および野洲伝道所における実際の試みを報告するのであるが、それがこれまで述べてきた事柄の基盤の上にのみ重ねられた試みであるということは必ずしもいうことはできない。


実際の試みとその理論付けとは相互関係にあるのであって、この試みに参加した信徒・求道者すべてが、上記の理論の共同制作者なのであり、またそれらの実際の試みをなしているのである。


伝統のある制度化した教会にとって「説教中心」の礼拝から「話し合い」の集い(出合い)への移行は、多大の躊躇を与えずにはおかないものである。そこには危険への恐れと新しさを拒否する慎重さがある。


仁保教会の場合がそれであって、今春総会で「仁保教会出合いの家」と改名したが、礼拝は従来のまま(日本基督教団礼拝順序式文に準ずる)を受け継ぎ現在にいたっている。


しかし、これまで2回にわたって「礼拝のあり方」について話し合いのときがもたれ、次第に内側から変革されつつあることを知らされている。ことこの問題に関しては、軽率に振舞うことはできないのであって、長い時間と十二分な話し合いを通じて、お互いの理解をふかめ、ともに成長することを願っている。


ところで、「野洲伝道所」は会員数4名〔!!〕、求道者を含めても20名足らずの小さな「出合いの家」である。「主日の出合い」の出席者も平均6〜7名で、われわれの試みの場として適当であるとも言える。


しかしこのような試みは、小教会のみに妥当するのであって大教会には不可能であるという意見には賛成できない。もちろん、現在のような会堂建築では実現は困難であろうが。


野洲伝道所<主日の出合い>」のプログラムは、「黙祷・賛美・祈祷・聖書〔輪読〕・発題・話し合い・賛美・献金・感謝祈祷・主の祈り・黙祷」となっている。以前は、「発題」と「話し合い」のところを「宣教と応答」と呼んでいた。


プログラムは決して固定化しているのではなく、みんなの意向によって組替えうるものである。使徒信条・交読文などを省いているのは、それらが無意味だからというのではなく、形式的要素をできるだけ省き、はじめからやり直そうとしたためである。ことに交読文については、用語も適切でなく現代的でないという意見が多かった。


賛美歌については、毎週その選択に苦慮している。個人主義的・彼岸的な歌詞が多く、ともに賛美できるものは実に少ない。新しい賛美歌が創り出されることを期待する。


今のところテーマは、役員会を中心にしてみんなで考えていこうとしているが、その場で発題者〔現在は教職が担当〕が10分から15分できるだけわかり易く説明する。その場合、当然発題は高所からなされるのではなく、みんなと同じ平面でなされるのである。


「話し合い」の方法は「円卓方式」である。発題の間に質問が飛び出したり、よこやりが入ったりで、発題は話し合いと区別できなくなることもある。なぜなら、発題者とは別にもっと異なった視点から新しい問題を提起するものも現れるからである。


われわれ日本人は「話し合い」が下手であるとよく言われる。「話し合い」をおしゃべりと同一視して「話し合い」に意味を見出さない人もある。


先にも述べたごとく、日本の従来の教育は「話し合い」のできる人間よりも、むしろ黙って承る式の人間を育ててきたのである。野洲伝道所出合いの家に集まるものとて例外ではない。まだ「話し合い」のルールを習得し習熟しているとはいえないので〔司会者・教職とも〕、ときには思わぬ方向へ脱線したり、行き詰まってしまうこともある。


またなにかの問題についてひとりの誤解をほぐすために、本来の話し合いにかける時間を費やしてしまい、ついには予定の時間を忘れてしまうこともあるし、ひとりの人が長々としゃべりつづけるので困ってしまうこともある。


しかし、いくつもの失敗を繰り返しながら、みんなが話し合いの妙味を知ってきつつあることは喜ばしいことである。


ここにはサラリーマンあり家庭の主婦あり、学生あり高校生あり、学校教師ありで、実にバラエティーに富んでおり、そのなかで共通のテーマを選び話し合うことはけっしてたやすくはない。


しかし、説教者が他者の立場に身をおいて考え出したような感じ方・考え方ではなく、おのおの自分と性別・年齢・環境・経済などを異にした生身の人間が、考え・感じまた体験していることを、直接聞きあい話し合うことには、格段の相違がある。


この「話し合い」の場において、われわれは自分で考え、それをひとつの意見としてまとめ、発言することの以下に困難であるかをしみじみと知らされる。と同時に、自分と同じように困難を乗り越えて話される他者の言葉に真剣に耳を傾けるようになる。


これらの経験をとおして、表現力が増し、相手の立場で考える能力、すなわち社会性も対人性も高められるのである。


また以前には、だれかが考えて教えてくれた事柄、それゆえに自らはただ与えるまま受け入れようとしていた事柄を、今やそれぞれが自らの頭で確かめ、自らの生活の座でいかに受け止めるべきかを考えてみようとするのである。すなわち、passiveな生き方から、activeな生き生きした生き方への変革が起こる。