『在家労働牧師を目指してー「番町出合いの家」の記録』(20)第1部「助走・探求の日々」第1章「結婚家庭と小さな家の教会」第2節「現代における教会の革新」(続き)

今回も「仁保。野洲」時代の写真を1枚収めてみます。


この小さな家の教会には、幼稚園・小中高、そして青年たちが多く顔を見せていました。そして「KKS」と呼んでいた高校生たちの交わりも愉快なもので、時々琵琶湖畔での研修会もやっていました。


これはその時のものです。1963年8月5日と裏書していますので、大学院2年生で、修士論文の仕上げで苦闘中の頃ですね。






        第2節 現代における教会の革新


            特に「礼拝の在り方」に関連して


  (つづき)


以上、「人間の本来的なあり方」と「出合い」及び「話し合い」について論究した。いよいよ形成しようとする教会の新しい礼拝について述べなければならない。


上記のように、あらゆるものが主体的人格者として相互に出合いうる現実こそキリストの共同体である。そしてその現実は、キリスト者が信仰において自覚しているところのものである。


また、キリストの共同体は、キリスト者のみで閉鎖的共同体を形成すべきものではない。したがって、相互に出合う共同体としての教会は、「主」にある「出合いの家」〔Haus der Begegnung〕として言語にもたらされるべきものである。


「出合いの家」とは、具体的な人間が、それぞれの問題をもって集い、真実をかたむけて話し合い、ともに力を合わせて、人間の共同社会をきずきあげようとする実際的な家である。


たんに教職中心でも信徒中心でもなく、人間共同の場である。ボンヘッファーは「社会的な交わりは、本質的に神との交わりを含んでいる。神との交わりが社会的な交わりを促すというのではなく、それぞれが、他なしにはありえないのだ」 ということが正当な理解であると考える。


この共同の家は、現代においてあちこちに新しく生まれてこなければならないのであり、現に存在しているのである。〔キリスト教の旗印のないものであっても、宗教とは無縁なものであっても、である!!!〕


また、「礼拝」という言語は、「共にある交わり」または「共同の出合い」として把握され、「聖日礼拝」は「主日の出合い」として捉えることが事柄にそくしているというべきである。


この「出合い」こそ、真の神賛美に他ならない。
週にいちどの「主日の出合い」は、共にある交わりであり、真実をつくした学びのときであり、祈りのときである。


「出合いの家」はまさしくキリストの現実に立っての「証しの共同体の再編成」 であり、その他に何者でもないのである。そしてこれは和解と共同の場として、地域社会、家族、学校、職場、国家、世界すべての形成に参与するに不可欠なものとして存在理由をもつのである。


この場合、「主日の出合い」における「神の言葉」とは、「話し合いのなかに到来する〔自己・他者・神・世界・・〕理解の内実」ということができる。


われわれはいわゆる「説教」を「聞くふり」をすることができる。
しかし、「話し合い」を発展させるためには、ひとりの発言をみんなが聞くことと、ひとりの出した意見をみんなが考えることが重要な態度として要請されるのであって、他者の言葉をたんに聞くふりをすることができない。


「話し合い」においては、「言葉」がそれを語る人格とともに生きているからである。そしてそこに共に生きようとする「共同の課題」を発見し、「共同の祈り」が生起するのである。それこそわれわれが「神の言葉」を聞くところの「内容」なのである。


   (続く)