『在家労働牧師を目指してー「番町出合いの家」の記録』(19)第1部「助走・探求の日々」第1章「結婚家庭と小さな家の教会」第2節「現代における教会の革新」(1の続き)

ただいま第1部の「助走・探求の日々」として、私たちの「仁保・野洲」時代の模索を掲載しています。そして、正式に赴任するまでの学生時代のほぼ3年間の頃の写真も残っていて、それらも収めています。


これらの写真を眺めていますと、私たちの場合、ここで過ごした実質5年ほど日々が、真に大きな意味をもつ歳月であったことを、思い知らされます。写真というものは、ほんとうに大事なものなんですね。


今回の写真は1961年8月、はじめてこの教会で夏期実習をさせてもらって、私の送別会のときの記念写真です。前列のネクタイをしておられるのが安藤斎次牧師で左隣が奥様です。安藤先生はこのとき古希を迎えられたころだったと思いますが惜しまれつつ急逝され、急遽私が学生しながら住み込みでお手伝いを始めることになり、安藤夫人には公私共々、お世話になることになります。分けても前列右端の梅村夫妻(奥様は後列左端の方)には、いい尽くすことの出来ないお助けを受けました。もちろん、ここに写るお一人お一人の方々におきましても。何と申しましても、私たちの本籍はいまも「仁保教会」なのですから。





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         第2節 現代における教会の革新


             特に「礼拝の在り方」に関連して


(前回のつづき)
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以上で、簡単ではあるが、現行の礼拝批判を終えて、次にわれわれは、われわれの新しく形成しようとする教会における礼拝の姿を述べなければならない。
 

まずわれわれは、人間の本来的なあり方に関して確認しておく必要がある。われわれの共通の人間理解は、あらゆる人びとがキリストとかかわり、あらゆる領域において、人間としての共同の課題に責任をもってとりくみ、共同に歩みをなすものであるということである。


その共同の歩みのなかには、多くの困難と矛盾が介在している。キリスト者・非キリスト者を問わず、われわれはそれを克服するために、万全の努力をすべき人間同士なのである。


現代社会に生きるすべての人間は、実際にはこのことが疎外されて、きわめて不完全なかたちでしか行われていない。これを回復することが、われわれ共通の課題なのである。


そのためには「人間」は、まさに「人間」として「出合う」ということがなければならない。なぜなら、人間はものと制度のなかに埋没して、自己を失っているのみならず、他者を見出すことがないからである。


自己の発見と他者の発見とは同時的・相関的・関係的である。それは自―他の「出合い」という出来事をとおして得られるのである。そしてこの「出合い」において、ひとりひとりが自立的・主体的人間として回復され、ひとりひとりの自発的な意欲にもとづいて、自分たちの願いを自分たちの力で達成していく力が育成されるのである。


この自立的な人間関係は「話し合い」によって育まれるという事実を正しく認めてかからなければならない。


こんにちまで「共同」ということはたびたび言われてきたのであるが、「共同の生」ということが「話し合い」としてつかむところまで進んでいなかったといわねばならない。


かつて、日本においても民衆啓発活動として行ってきた教育形態に「承り学習」があった。これは教会における「説教」にも似た方式であって、何度よい「お話」を承ろうとも、けっして人間を自立的にすることはなく、むしろ逆に人間を依存的にさえするものであった。


 われわれリアルな人間が、共に出合い、ひとりひとりの自主性がのび、思考力が開発されることによって、自立的自由人に成長すること、これがわれわれの目的のひとつとして考えることができる。そこで主体的人格者として相互に出合うのである。


 「出合い」については、E・ブルンナーの『聖書の真理とその性格―出会いとしての真理』(昭和25年)やM.ブーバーの『孤独と愛―我と汝の問題』(昭和33年)などの著作をとおして一定の理解がゆきわたっており、われわれにとってもそれらは著作のひとつであるが、ここではそのコメントは割愛する。


ところで、われわれは「話し合い」について立ち入って説明を加えなければならない。以前から注目しているひとつに「エヴァンゲリッシェ・アカデミー」の運動があるが、日本においても「日本クリスチャン・アカデミー」としてこの運動を推進しており、「話し合い」に関してわれわれに多くのことを教えている。


「話し合い」とは、自分の考えを表明することにおける誠実さと、他人の語るところに静かに耳を傾ける寛容さと公正さのないところには起こりえないひとつの出来事である。


「話し合い」をいとも簡単にできるかのように考えるのは、現実ばなれの錯覚にすぎない。たんなる雑談やおしゃべり、また儀礼的な言葉のやり取りやお互いのはらのなかの探りあいなどと、真に生産的な意味をもつ「話し合い」と混同してはならない。


「話し合い」は自分の意見とちがう人に深く聞くことであり、自分の意見を正確に相手に伝えることである。どのように鋭く意見の対立があっても、人間はけっして絶対的に分裂しているのではないと信ずるのが、われわれの根本原則である。


われわれはこの創造的行為である「話し合い」をあらゆる領域で創り出さなければならない。「話し合い」は、たんなる付き合いの便法ではなく、人間が相互に人格として出合い、語り合い、自己だけではけっして得られなかった新しい創造を体験するためのものである。そのような創造を期待しない人は、いくら話し合っても結果は無駄である。彼は結局自己から出て自己に帰るモノローグを繰り返すのみである。


しかし、創造的な話し合いにたいして心開かれているものは、自由な自己としていつも他者に出合い、真実な交わりを喜ぶことができる。必要なのはこの「話し合い」である。


 そしてそのような「話し合い」がなされていくためには、まずそれにふさわしい「場所」が必要である。すなわち「話し合い」はそれにふさわしい環境的条件を必要とする。くわえて必要なものは、「話し合い」を生産的に展開させていく技術である。
 

          (次回につづく)