『在家労働牧師を目指してー「番町出合いの家」の記録』(18)第1部「助走・探求の日々」第1章「結婚家庭と小さな家の教会」第2節「現代における教会の革新」(1の続き)

今回もはじめに、同志社で学んでいた学生の頃からご縁のあった琵琶湖畔の仁保教会と野洲伝道所の皆さんと写した写真が出てきましたので、前回に続いてここに1枚、アップして置きます。


これは、正式に赴任する数カ月前、1963年12月23日に、同志社大学神学部の高橋虔先生を迎えて、クリスマス礼拝を行ったときのものです。後列左から3人目が高橋先生です。


高橋先生には、同志社大学神学部の礼拝堂で執り行われた私たちの結婚式(1964年3月17日)の司式をして頂きました。





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         第2節 現代における教会の革新


             特に「礼拝の在り方」に関連して


    (1の続き)


     c 「説教」は「神の言葉」そのものではないということ


教職者が神ではないと同様に、かつまた聖書が直接的に神の言葉でないのと同様に、説教も神の言葉そのものではない。人間の言葉であることは当然のことである。人間である以上、教職の言葉も信徒の言葉も何の区別はない。「説教=神の言葉」という公式を正当化するなら、人間に聖俗の階級を設けることになり、プロテスタントの精神は失われる。


アウグスブルグ信仰告白の古典的表現によれば、教会とは「福音が教えられ、聖礼典が正しく執行される」ところであると語られているが、「神の言葉」が現行の「説教」そのものにのみ限られることには多くの疑問をふくんでいる。


確かにいままで説教者は、神の言葉を取り次ぐ者であって、彼の発言自体が神の言葉ではないといわれてきた。しかし、にもかかわらず、神に言葉と人間の言葉を弁別することは不可能であり、そのような論理は巧みに語るものの権威を高め神格化させることに役立ってきたのではあるまいか。


「説教」とは、いわゆる「神の代弁」ではなく、イエスに出合って生きる人間の証言である。「神の言葉」は、われわれキリスト者が日ごとに受け取るものであって、「神の言葉」を語り聞くことは、すべてキリスト者に可能な事柄であるといえる。宗教改革は、礼拝改革であるとともに説教改革であったが、この点において不徹底であると言わねばならない。


   d 教会は少数者〔キリスト者〕のみのものではないということ


「礼拝」が閉鎖的で独善的であることは、いかにも不健康な姿である。礼拝は、本来教職中心的なものでも、たんなるキリスト者中心のものでもなく、生けるものすべてのものである。


「礼拝はキリスト者のみのなしうるところであって、求道者が共にいるから、その本質がゆがめられる」とよく言われるが、イエス・キリストがキリストを知ったものも知らないものも、へだてなく「主」でいますゆえに、たえず礼拝は、信徒も求道者も、また無関心なものも、共に集うことが可能なところなのである。だれ一人として礼拝にもれるものがあってはならないのであって、率先して自発的に他者とともに集うのである。


教職が信徒にたいして特権階級ではないのと同様に、信徒も求道者にたいして特権階級ではない。キリストはすべての人間を同じ場所におき給う。その意味で、イエス・キリストにある集いは、たえず開かれており、少数者のものではないのである。