『在家労働牧師を目指してー「番町出合いの家」の記録』(16)第1部「助走・探求の日々」第1章「結婚家庭と小さな家の教会」第2節「現代における教会の革新」(1の続き)

ここでもはじめに、当時の写真を1枚収めて置きます。


小学生から高校生まで、青年たちのリーダーも加わって、琵琶湖畔のキャンプ場で写したものです。いやはや、懐かしい人たちです。




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       第2節 現代における教会の革新


           特に「礼拝の在り方」に関連して


(1の続き)


われわれはこんにちの「礼拝のあり方」から多くの事柄を学びうるし、今後も共同の学びを必要としているのであるが、すでに述べた「礼拝の本質」のなかにある諸点について、多くの疑問を感ぜざるを得ないのである。以下に、その批判を記したい。


 a 神中心の礼拝――神のactiveと人間のactiveは対立するのか?


さて、われわれはここでわれわれプロテスタント教会の「礼拝」の本質的前提をなすと考えられる事柄、すなわち、神のactiveについて、ひとつの素朴な疑問を提示する。
 

日曜日の朝、礼拝堂の窓から美しいオルガンの音が響き渡る。
例によって例のごとく、まだまばらにしか座席に人はいないが、彼は自分の指定席(おおむね習慣化した)に腰をおろし、週報に目をとおし、そして静かに心の準備をする。


礼拝がはじまる。賛美がなされプログラムは順順に進行していく。
ふと彼は、自分の隣に座っているひとに気付く。初めての人らしい。彼は聖書を開いてあげたりして、あれこれと世話をする。


やがて牧師の説教である。十何年来聞きつづけてきた、澄んだやわらかで味のあるその声が、今日もまた心地よく響く。


ある個所では「なるほど」とうなずき、ある個所では「いや、どうもおかしい」と反発し、また「これではいけない」と自己反省する。


やがて例のごとく、一段と声が高くなって説教が終わる。なんとなくほっとしながら賛美歌。献金をして最後の祝祷。


いちどにどっと緊張から解放される。・・やがて彼は、出口で牧師と挨拶し、満足感をもって帰っていく。


彼はかつて自らに問い掛けたことがあった。「神を真に神とし、真に神をあがめることはこういうことなのだろうか」と。あるいは「俺は、この白く洗いあがったシャツを着て礼拝堂に入ると同時に、ほかの6日間のあの生々しい泥臭さをかなぐり捨ててしまったのだろうか」と。


しかし、今ではそんなこともあまり考えない。自分の1週間の生活は、何をおいてもこの聖日礼拝なしには考えられない。この礼拝をとおして、新しい生きる力が与えられると信じている。礼拝堂でついさっきまで一緒に座っていた青年のことも、もはや思い出そうともしない。


さて、上記の素描の一キリスト者が、すべてまじめなキリスト者の典型というのではない。しかし、多くのひとは、彼のなかに己の姿を見るはずである。そこには、純粋な神への信仰と同時に、個人主義的ムードあるいは無力感が充満している。


礼拝のプログラムはあらかじめ定められ、なんら彼の介在を必要としない。礼拝にたいして彼のなしうる最高のことは、「心から」神を賛美しようとする内的戦いであり、おのれに向かって語られる神の言葉を「受け取る」ことである。


全体がpassiveであって、彼のみの独自なactiveな行為がない。あるとすれば、「賛美」と「献金」である。当然、礼拝における責任感は希薄になり、個人の自発性、自立性、自主性は二義的にしか考えられていないような錯覚(?)を持つ。こんにち、passiveな状態におかれることによって生ずるさまざまな障害は、心理学的にも証明されているところである。


現行の礼拝において、人間の主体性が問われるのは、「礼拝に出席するか否か」という自己決定のところまでに過ぎない。神のactiveと人間のactiveとは同時的に考えられないであろうか? さらに、神の前で「むなしくなる」ということは、そのままpassiveな立場に甘んじるということになるであろうか?


(続く)