『在家労働牧師を目指してー「番町出合いの家」の記録』(15)第1部「助走・探求の日々」第1章「結婚家庭と小さな家の教会」第2節「現代における教会の革新」(1bc)

6年間の学生生活を終え、新婚家庭をスタートさせ、最初に赴任した教会が、近江八幡市の郊外に建てられた小さな家の教会の「仁保教会」で、同時にもうひとつ隣町の野洲町にあったモット小さな家の教会の「野洲伝道所」と、ふたつを兼務していました。


前回から掲載をはじめている「現代における教会の革新ー特に「礼拝の在り方」に関連して」の具体的な検証の場所は、このふたつの教会での実験でした。


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ここでも、最初に一枚、当時の写真を収めます。


滋賀県伊吹山という高い山があって、冬にはスキー客で賑わいますが、これは青年たちと出かけたときのものです。これだけ見れば、この人はスイスイ滑れそうに思われましょうが、山陰の雪のあるところで育った割にはスキーに親しんだ経験もなく、このときがスキーの初体験。我が生涯で、スキーを滑ったのは、この一日だけでした。





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それでは、1のbとcを収めます。教会というところを訪ねてみられたことのない方には、理解の届かない箇所かもしれませんが、駆け出しのころのお粗末な論攷を、記録として収めていますので、しばらくお付き合いください。



         第2節 現代における教会の革新

       
          特に「礼拝の在り方」に関連して


           1のaを承けたつづき




 さらに、教会においては「交わり」(コイノニア)が本質的なものであって、礼拝はキリストによってわれわれが父なる神と交わることに他ならない。


そしてキリスト者は、宣教される御言葉によって、かけがえのない心の糧を神から与えられるものと信じるのである。そこで、真の悔い改めと赦しとを信仰のなかに憶え、古き生命から新しき生命へと再出発させられるのである。


したがって、人間同士の交わりは、教会の本質的機能であるにしても「公同の礼拝」のところでなされるのではなく(礼拝のときは無言の交わり)、礼拝後になされるべきであるとされている。


 
 この世に生きるキリスト者は、「主日」に教会に集い、御言葉を受けて世界に派遣される。そこにキリスト者の生活のリズムが成立する。


「集められた教会」と「散らされた教会」とする説明も、多くの人びとの受け入れるところである。そこでは、世界と教会との連続性とともに異質性・断絶性が強調される。


 こうした礼拝に関する考え方は、こんにちのキリスト教界の常識的・一般的見解である。わが教団においても、「宣教基本方策」のなかで、現行の礼拝のあり方が踏襲され、正当化されている。


それによれば、「教会は礼拝と祈祷を重んじ、その充実をはかり、全生活を神にささげる(マルコ13:31)」と記し、解説として「外に打って出るエネルギーは、内にたくわえられた礼拝と祈祷の充実によって生まれる。『忙しい』『つまらない』などもろもろのいいわけを去って何はともあれ礼拝に出席しよう」 (傍線鳥飼)
 

こんにちの礼拝論の方向は、ひとつはリタ―ジーの重視という方向で、これを新しくすることによって、礼拝を力あるものにしようとする傾向である。


そこでは一定のリタ―ジーの繰り返しによって技巧化し、形式化をすすめていく。他方には、説教を重視し、これをつねに新しく充実することによって礼拝を回復しようとする方向がある。


これらはいずれも、先にあげた礼拝の本質の上に立っている。