『在家労働牧師を目指してー「番町出合いの家」の記録』(14)第1部「助走・探求の日々」第1章「結婚家庭と小さな家の教会」第2節「現代における教会の革新」(1a)

人生はじめての赴任地、近江八幡市の郊外、農村地帯にあった「小さな家の教会」での悲喜交々・・・。新婚の結婚家庭で・・。


いまここには当時の教会はなく、小さな家があって・・。
思い出イッパイの場所です。今回も1枚、日曜学校のキャンプのときの写真を収めます。




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    前回は「序」を入れましたので、今回は「1a」の箇所を掲載します。



             現代における教会の革新


            特に「礼拝の在り方」に関連して


                 1


われわれは、はじめに現行の「礼拝のあり方」を批判することから始めなければならない。


しかしその前に、「礼拝」の問題は教職、信徒のみならず求道者の共通の問題であって、教職のみの自由になる事柄ではないことを確認してかかる必要がある。


こんにちまで礼拝の問題は、多数の教会おいて本格的な神学的・実際的な課題として、主体的なかたちで共同の形成が積み上げられず、たんなる過去の踏襲であったり、教職個人の神学的主張によるものであったりしてきたことは、まことに遺憾なことであったといわねばならない。


すなわち「十分に語り合って、みんなで創り出した礼拝のあり方」ではなかったのである。また同時に、教会間においても積極的な対話がなされていない現実がある。それなるが故に、こんにちこそエキュメニカルな対話が、ローカルな地点においても是非必要なのである。
 

さて、批判をするためには現状を正しく理解することが必須条件である。
ところで、教会といっても都市にある教会と農村にある教会と地域性の相違もあるし、教会の大・中・小、会員数の相違もある。同時に各教会の伝統の相違もある。


それらの相違はこんにち正しく評価されなければならないが、ここでのわれわれの批判の対象は、上述の相違にもかかわらず、日本基督教団の諸教会に共通の問題であるいくつかの点に集中するのである。
 以下、こんにちの礼拝の本質と考えられるものを記す。

 

 まず、昨年のモントリオールにおける信仰職制委員会第四回世界協議会の報告書から、こんにちの礼拝の本質に関連したものを1,2引用する。


キリスト者の礼拝は、御子によってあがなわれ、聖霊の力の下にたえず新しい生命を見出している人間による、父なる神へのひとつの奉仕(Service)である。」 (傍線本文)


「キリストの自己投与(own selfoffering)への参与としてのキリスト者の礼拝は、キリスト者共同体の形作るひとつの行為である。更にこの行為は、ひとつなる普遍的教会(catholic church)を象徴する、すべての教会の関連性の中に行われるものである。」 (傍線本文)
 

そして、礼拝は「キリスト教界のすべてにおいて、聖書に基礎付けられた説教を含むリタ―ジーと関連している。従って説教者の課題は、旧・新約聖書にのべられている預言者的・使徒的御言葉を宣教することであり、現代の状況において、神の審判とあわれみのこの言葉を解釈することである。」
 

このような視点に立ってプロテスタント教会は、教職による説教中心の礼拝が執行されているのである。「神の言葉の説教は神の言葉である」とは第二スイス信条の命題であり、「説教は、神の定め給うた教会のための教会の活動である」(「教会のための教会」に傍点) とはボンヘッファーの言葉であるが、これは宗教改革以来の伝統の上に立っているのである。


であるから、教職はもっぱら御言葉の役者として立てられたもので、信徒はその語られた言葉を「神の言葉」として聞く(拝聴する・承る)のである。そこでは、神の言葉=説教への批判は暗黙のうちにタブーとされ、不問とされる傾向が大である。
 

(続く)