『在家労働牧師を目指してー「番町出合いの家」の記録』(13)第1部「助走・探求の日々」第1章「結婚家庭と小さな家の教会」d第2節「現代における教会の革新」(序)
今回は、第1章の第2節に進みます。
当時はまだワープロやパソコンなどない時代ですから、カリコリカリコリとガリ版で謄写印刷をしていました。
ここに掲載する『現代における教会の革新ー特に「礼拝の在り方」に関連して』は、そのガリ版印刷で、ホッチキスでとめた簡易なパンフレットです。
写真を探していましたら、毎年夏には近くの琵琶湖畔のキャンプ場に出向いて、子供も大人も楽しいときを過ごしていた頃のものが出てきました。
大きなお釜から、ご飯を山盛りによそおっている、鉢巻き姿のやさおとこが写っていました。当時は50キロもありませんでした。もういちど、あの頃に戻りたいデス。
それでは、若き日の「問題作」を公開いたします。まずは、その序文のところまで。
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第2節 現代における教会の革新
―特に「礼拝のあり方」に関連して―
「若い教会がこれまで受け継いできた教会組織や制度のかたちを再吟味しようとする試みが、いまなされつつある。急激に過去の時代のものになりつつあるそれらの旧式の教会組織や制度に取って代わって、その土地に土着した、強力にしてかつ適切な、礼拝や伝道の方法が生まれるに至るであろう」
序
「教会の革新」(Renewal of the Church)は、われわれ共通の課題である。こんにち神学界において、この課題に関する多分野にわたる貴重な労作が、数多く山積している。聖書神学、歴史神学、組織神学それぞれにわたって、現代におけるあるべき教会の本質と実際に関して、多大の貢献をなしている。
そして、それらの神学的労作に学びながら、実際のこころみが幾重にも、慎重にかつ大胆に継続されているのである。われわれは全力をつくしてその課題に取り組まねばならない。
われわれはここで「現代における」という言葉をもって、特別に「教会の革新」を規定した。このことは当然のことながら、教会形成の歴史的制約性の表現にほかならない。われわれはけっして歴史的伝統を無視するものであってはならないし、伝統(過去の遺産、時代的産物)から他律的に拘束を受けるものであってはならない。
教会は絶えず、あるべき姿をたずね求めながら、問い続ける共同体であって、いうなれば「復活から生きる」(ボンヘッファー)姿勢のなかで、共同の模索をする自由をもっているのである。けっして自己を絶対化せず、絶えず真理にたいして従順であり、開放性を与えられている共同体こそ「主」の教会である。
このことは、あらゆる領域(内には教会、神学、外には自然及び社会科学、諸思想)との対話のなかで、共同の課題をたずね、それを共に背負わんとする「真人の聖務」にあずかることである。
さて、われわれは「教会の革新」は「礼拝のあり方の革新」として把握されることが不可欠である、との確信の上に立っている。
もちろんわれわれは「教会の革新」を「礼拝のあり方の革新」だけであると考えているのではない。ただここでは、「礼拝の再発見」にポイントをおいて考えるに過ぎない。なぜなら、もしキリスト者の生活において、「礼拝」が本質的に不可欠な事柄であり、中心的なものであるならば、当然「教会の革新」=「礼拝の革新」でなければならないと考えるからである。
実際、こんにちの教会の交わりも、奉仕も、神学も、教会教育も、礼拝の問題にかえって来るのである。
われわれが、以下に論究する事柄は、少しく的はづれの観を与えるでもあろうが、あくまで「現代における教会の革新」という視点からの、また現場のなかからの率直な発言として、新しく言語にもたらそうとしたものである。
われわれの小さな試みは、こんにち各地で行われているエキュメニカルな試みのひとつであって、何らかの存在理由があれば幸いである。
以下、次の順序で叙述する。1、現行の礼拝の本質とその批判 2、われわれの指向する「新しい礼拝のあり方」 3、実際の試みと反省 4、結論
(「礼拝のあり方」を論述するにあたり、並行して教職論、教会論、信徒論、さらに根源的にはキリスト論、神論、聖霊論等にわたる見解を明記する必要がある。また、礼拝の問題は、聖書神学、聖書解釈学、歴史神学、組織神学、実践神学、キリスト教倫理学、キリスト教教育学などの各部門にわたって、詳細に問題としなければならないが、微力のためと紙面の都合により、ここでは割愛しなければならない。われわれは以下の論述のなかで、多少これにふれるに留めたい。)