『在家労働牧師を目指してー「番町出合いの家」の記録』(12)第1部「助走・探求の日々」第1章「結婚家庭と小さな家の教会」第1節「「出合いの家」の誕生」

これまでの「序章」では、既に「番町出合いの家」を設立して新しい生活を開始して10年近く経過しようとする段階でのレポートを掲げました。


しかし「番町出合いの家」の記録としては、そこに至るまでの第1部「助走・探求の日々」を省くわけにはいきません。


それで今回は、「第1章 結婚家庭と小さな家の教会(1964年〜1968年)」の「記録」のところを収めます。 


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ところで、今朝から昔の写真を取り出していて、その中から2枚、はじめに記録として収めて置きます。


1枚は、1958年4月、同志社大学神学部に鳥取県から3人揃って入学し、当時は神学部の学生だけの学生寮があって、そのひとつの「壮図寮」に3人とも入寮しました。オボコイ「鳥取三羽烏」の写真がありました。左は宇山・真ん中は草刈・右がボクチンです。





もう1枚は、3回生のときに夏休みを利用して「夏期実習」という機会がありました。将来私は田舎の小さな教会で牧師の働きをしたいというのが夢でしたので、滋賀県近江八幡市の郊外で、民家を一部分買い上げてできた文字通り「小さな家の教会」に派遣してもらいました。


「仁保教会」という名前の教会で、牧師は安藤斎次先生でした。下の写真は、琵琶湖畔で行う夏季キャンプの時のものです。





この実習期間が終わろうとした時に、安藤牧師が急逝されるという事態となり、急遽私はこの「家の教会」に住み込んで、そこから大学へ通学するということになりました。


これが1961年の夏でしたから、大学院に進み、卒業して結婚式も済ませ、正式にこの「仁保教会」に就任するのは、1964年の春のことでした。



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それではここから、「記録」の掲載を始めます。




   第一部 助走・探求の日々

    第1章 結婚家庭と小さな家の教会(1964〜1968)


       第1節 「出合いの家」の誕生


 わたしは今春(1964年)同志社を卒業し、滋賀県の中央、琵琶湖畔の一隅にある仁保教会に招聘されました。近くの近江八幡教会には同輩の長崎哲夫氏も赴任し、若さに満ちた滋賀地区の教職仲間に、共に加わることになりました。個人的にも卒業と時を同じくして、良きパートナーと新生活に入り、ふたりして野洲伝道所を兼任しています。


2ヵ月あまりの新生活のなかで、すでに多くの体験を味わいましたが、この紙面では以下のようなささやかな試みを提示させていただき、若輩のわれわれにたいして、皆様の適切なご意見を持つことにいたします。


 まず、「地域にある教会のあり方」について


 4月の教会総会で、教会の名称が日本基督教団仁保教会「出合いの家」と命名され、5月のはじめには、次のような言葉が教会の玄関に誕生しました。


              出合いの家


       この家はみんなの家
       幼子も少年も
       若い男も女もいます
       働きざかりの
       力強い男もいます
       家庭ではげむ主婦もいます
       老いたる人も
       皆 共にいます


       共にいて わたしとあなたが出合います
       赦し合い 励まし合い
       力一杯生きるのです
       私のこと 家のこと
       町のこと 社会のこと
       国のこと 世界のこと
       みな語り合い
       理解し合い 聞き合います


       なぜなら
       イエス・キリスト
       みんなの生命であり
       愛であり 希望だからです


 この言葉は、地域社会にある教会の姿を明示したものです。


  ① 教会(出合いの家)が「みんなの家」であって、特定の人びと(キリスト
    者)のみの集会ではないということ。
  ② みんなの出合いの場であり、話し合いの場であるということ。
  ③ そこで、人間としての責任と課題を聞き合い、負い合う交わりのなか
    に、「主」が共にあるということ。
  ④ 「主」は地域社会の主権者であり、教会はその事実の顕現体であるこ
    と。
    などを含んでいます。


 このような視点から当然、将来の礼拝のあり方が問われてきます。いわゆる説教中心の「聞く」礼拝から、「語り合い 理解し合い 聞き合う」礼拝へと、私たちの関心は深まり、移るのです。


 いまのところ、野洲伝道所の「出合いの家」では、日曜日の礼拝を「主日の出合い」と呼んでいます。現代社会の異なった状況のなかで、生きて働くものたちが、主日ごとに出合うのです。その形式は、出席者10名程度ですので「円卓方式」です。すなわち、メッセージは高い所から語られず、みんなと同じところでなされます。


 わたしたちは、説教のところを「宣教と応答」と呼んでいますが、宣教がみんなの対話のなかで展開されるのです。これには、教職のグループ・ワークの専門的訓練が要求されると思います。


 わたしたちが、この出合いの後に感じるのは、十分に語り得たという喜びと、教職の重要な責務の自覚と、多くのことを信徒・求道者の方がたから教えられたという感謝です。


 不十分な近況報告ですが、今後さらに色々な角度から検討をくわえ、開かれた思いをもって、みんなと共に頑張りたいと願っています。

          《「基督教世界」第3170号、1964年7月10日)