『在家労働牧師を目指してー「番町出合いの家」の記録』(11)序章「よろこびのうちに生きる」第8節「創造的世界は始まっている」

ここまで掲載してきた「序章 よろこびのうちに生きる」においては、カール・バルト西田幾多郎滝沢克己といった先達と共に、延原時行の名前がしばしば登場します。


彼は、学生時代の先輩であり、牧師としての同僚であり、今日まで最も多くのことを学び続けている畏友であることは、これまで何度も言及しました。


別のブログ「番町出合いの家(TORIGAI)」の8月27日付けでは、彼の最新著『あなたのいちばん近い御方は誰ですか』(日本キリスト教団出版局)が我が家に届けられたときに、話題の新著と共に、少し取り上げました。


ここではその新著の表紙と共に、ザルツブルグにおけるホワイトヘッドの国際会議に出席して報告している写真が、その国際会議の公式サイト上に掲載されていましたので、それをここにアップいたします。


いまここに掲載している「序章」は1977年ですから、延原さんはまだ若い時ですが、ザルツブルグで撮られたこの写真は、「2006年7月4日」とありますので、彼はこのとき69歳ですね。


若い時から彼は、独創的な思索と実践を積み重ねてきていますが、この写真を見ても、益々活力溢れる、若々しい声が伝わってくるようです。稀有な国際的論客としても注目をあび、今月25日から日本(上智大学)で開催されるホワイトヘッドの国際会議においても、講演のお役が待っているようです。












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            序章 よろこびのうちに生きる


           第8節 創造的世界は始まっている


さいごに、瀧澤の原理論的論究をふまえつつ、独自な「組織論的理性の模索」を精力的に追求する延原の神学にふれておかねばならない。


彼は、はじめにも述べたように、10数年前〔1964年〕から「巡礼者キリスト教」を善しとして歩みだした開拓的実験者であるが,2年ほど前〔1974年〕から自覚的に「在家基督教の産声」(『在家基督教通信』無風庵刊)をあげ、教派・教団・教会の底を破って「在家基督者」を見定めるにいたるのである。


彼のいう在家基督者とは,「先ず第一義的に実在により裏打ちされ,定義され,充実している」「実在的大衆生活者」(前掲「バルト以後」)であり、「同時代者と共苦する個人」〔バルト〕の謂である。したがってそれは、教派・教団・教会にも不可避的にふくまれる「基本単位」であることが確認される。


「もしわたしたちが視野を己の生きるそこに勇気をもって転ずれば,『教会にいっているから』信ずるのではない、生きるから信ずる、自活・自修の途に立つ在家基督者である自分に気付くはずだ。瀧澤の発見した『教会の壁』の外に(も)横溢する神人の原事実は、そのような信徒の発生を促してやまぬ」〔前同,傍線は原文傍点〕として、瀧澤原理論を組織論的に読み替えるこころみを展開するのである。


そして、彼はさらにこれを「在家キリスト教テーゼ」及び「在家基督教教程〔草案〕」並びに「現代牧会批判テーゼ」などで、吟味徹底させる。


同時に他方、彼は1972年秋、WCC〔世界キリスト教協議会〕「教会と社会」部門の主催する国際専門家会議「暴力、非暴力、社会正義のための闘争」で出合った「平和学」のヨハン・ガルトゥングとの思想的対決折衝のこころみを「平和研究における暴力概念」及び「平和の神学・素描」などで展開してきた。


こうして、延原は今、南部カリフォルニア大学クレアモント神学校の「現役牧師のための宣教学博士課程」に学び、「日北米両教会における宗教革命」の論題で、当地の「プロセス神学」と瀧澤哲学を折衝させつつ、原理的・歴史的・教会社会学的に検討をくわえる仕事に専念している。


次々と、思いがけないかたちで,われわれの生活の途上において「出合い」が起こる。そして、つねに今ここにおいて、新しく生きることを学んでゆくのである。


「新しい思惟と行為の根源的基点」は、けっしてわれわれの所有物にはならないし、してはならないのである。いかなる素晴らしい理論でも実践でも、つねに新しく根源的基点から検討され、批判・吟味されてゆく。われわれにとって、われわれの旧い思惟と的はずれの行為が、この根源的基点によって新しくされ、正されてゆくことほど幸いなことはないからである。


われわれの生きている世界は、すでに堅い根源的基点に裏打ちされており、万物はすでに「インマヌエルの原事実」〔瀧澤〕、「創造的世界」〔西田〕によって、絶対の背後から支えられているのである。


すべての人が、絶対無償の愛によって新しくされており、行き易い道が、すでにそのつど新しく備えられているのである。だからこそ、われわれは、現代の危機にもかかわらず、その危機のなかで希望をもって生き続けることができるのである。


「新しい歴史の創造」は、すでに絶対の背後で始まっており、そこからこだまする「小さなしるし」は、われわれの予測を超えたところで、力強く噴出しつつあるのである。それもつねに、多くの人の目には隠されながら。

  《総合雑誌『世界政経』1977年1月号の特集「新しい価値創造と歴史意識」に掲載。原題は「現代の危機と革命神学」)