『在家労働牧師を目指してー「番町出合いの家」の記録』(10)序章「よろこびのうちに生きる」第7節「小さなしるし=滝沢神学」

今回の第7節「小さなしるし=滝沢神学」に取り上げている、滝沢先生の著作『宗教を問う』(1976年、三一書房)の表紙を掲載して、本文に進みます。







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           序章 よろこびのうちに生きる


          第7節 「小さなしるし」=瀧澤神学


ここで、再び瀧澤「神・人学」の展開に注目しなければならない。


周知のとおり、瀧澤の場合、西田哲学・バルト神学・久松禅学・浄土真宗等々との折衝をとおして、人間成立の根源的基点にふくまれる構造・文節・力学を愈々闡明にして今日におよんでいるのである。


瀧澤の新著『宗教を問う』〔三一書房〕は、先年《1974〜75年》ドイツに招かれて当地でおこなわれた講義・講演等を収めたもので,解り易い筆致でこれまでの思索の後がたどられている。次にその一部を引用したい。先のJ・H・コーンの言葉とは、大いにその響きを異にしているものである。


「人間がそのなかに住んでいる世界、この世界のなかの一々の存在者、おのおのの自己そのものは、まさにその成立の根底において一つの揺るがすべからざる堅い止め・運動の条件をもっています。〔中略〕わたしたちがそれを知るかどうかにまったく関わりなく、人間の生もしくは人類の歴史にとっては、その始めから終わりまで一つ無条件の決定――が支配しています。〔中略〕歴史的・現実的な何ものも、この一つの根源的な・人間のものではない決定の枠の外で生起することはできません。」〔40〜41頁、傍線は本文傍点〕


人間の新しい思惟と新しい行為は、この堅い止め・運動の起点・無条件の決定(「第一義の神・人の原関係」)と「不可分・不可同・不可逆」の根源的関係において成り立つ表現・徴表《Symptom,Zeichen》〔「第二義の神・人の統一」〕として生起するのである。この一見、われわれの目に難解にみえるこうした表現も、人間の事実存在の真相を探るものには自ずと気付かされてくる単純で解り易い真実である。


1976年7月より福岡で開催中の瀧澤ゼミ=「マルコ福音書の研究――田川注解の触発による」は、現在「盛況の中にすすみ、内に鋭い迫力を受けつつ、今、状況の真中に立っている」〔世話人・村上一朗書簡〕という。


われわれが「神戸自立学校」で以前から瀧澤の著作をとりあげ共同研究をすすめていることもあって、幸いこのゼミの収録テープが届けられ、いま共に学ぶ機会を得ている。田川健三の労作『マルコ福音書 上巻』〔新教出版社〕を吟味・批判しつつ、氏の「神・人学」がいちだんと厳密な表現をもって展開されつつあるのである。


瀧澤は、その初期の段階より,従来の「哲学」「宗教」のいわばその底を割ったところの根源的基点からの新しい思惟の展開として、哲学、宗教、経済学、国家論、家族論等々のはばひろい論究をすすめてきた。しかも、当初から日本の枠をこえて、世界での交流を、ことにカール・バルトとの長期にわたる学問的折衝のなかで育ててきたのである。この点,先の日独教会協議会〔1976年2月〕でのW・ベトヒャーの次の発言「日本の神学――ドイツの論議の中で」(『福音と世界』1976年9月号)は印象的である。


「私の見るところでは、滝沢氏の神学は一つの特別な、また不可欠の貢献をなしております。」「『神われらと共にいます』という仲介の原事実によって仲介されているので、〔中略〕彼には、自分に高値をつける必要、自分を広げる必要、自分を偉大に見せる象徴を持つ必要は全くありません。彼はこの自分の場において、ただ、自分が本当にそうである、そのものであればいいのです。」

瀧澤は、再びこの3月〔1977年〕から満1年、マインツ大学その他の招きでと渡独の予定という。この静かな、そして「小さなしるし」(ベトヒャー)である瀧澤「神・人学」は、それが「神の足台」(マタイ5・33)から湧出する創造的表現であるかぎり、現代の危機を超克し,全人的解放をうながす「神ノ業」に反響する、明るいこだまとして響きつづけるに違いない。