『在家労働牧師を目指してー「番町出合いの家」の記録』(9)序章「よろこびのうちに生きる」第6節「現代神学の根本的隘路」

今回掲載する本文に取り上げている延原時行さんの論文「バルト以後」(『福音と世界』1975年10月号所収)をスキャンして見る。ギリギリ判読が可能のようなので、私にとって当時、重要な論考のひとつなので、全文を掲載して見たい。いずれ延原さんの著作として刊行されるはずですので、そのときに熟読頂きたいと思います。




















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          序章 よろこびのうちに生きる



           第6節 現代神学の根本的な隘路


ところで、現代神学の状況と問題点について、延原は「バルト以後」〔『福音と世界』1975年10月〕で次のような概括を行っている。


現代神学は、「『個的実存から政治的構造へ』および『理論から実践へ』という二つのモチーフ」のもとに、「『希望の神学』(モルトマン)、『神の死の神学』(ハミルトン、アルタイザー)、『革命の神学』(ゴルヴィツァー、コックス)、『解放の神学』(ラテンアメリカ・メデリン会議)、『黒人神学』(コーン)、『歴史の神学』(パンネンベルグ)、そして『政治神学』(ゼレ)へ」と動いてきた。しかしこれらの「から――へ」の主張は、けっしてその「実在的転轍点〔基軸と動力〕」を明示しているとはいえず、モルトマンは「宣教へと駆り立てるものと歴史的地平に生ずる限りでの実在的変化との本質的区別を十分見極めているとは言い難」く、ゼレは「万物の解放と言うが、その根源的本質的意義と歴史的本質的意義とを神学的に峻別し得ているわけではない」と。〔傍線は本文傍点〕


これはあまりに略述した部分的引用で分かり難いかも知れないが、いわゆる「理論と実践」「根源的本質と歴史的本質」の区別と関係の説き方に関連しても重要であるが、この指摘は、われわれがもっとも注視して踏まえるべき「第一歩」の、ぬかしてはならない基礎視座がなお曖昧である点をつくものである。またこれは、瀧澤がこれまでもたびたびわれわれに、西田幾多郎の次の言葉を引用して、注意を促した点にかかわる問題である。


「問題の対象を新(あらた)にすることは、直(ただち)に思惟を新にすることではない。又問題が具体的だということは、直に思惟が具体的だと云うことにはならい。」〔『哲学論文集』第三,序〕


この点、J・H・コーンの『黒人解放の神学』の興味深い刺激的な諸論文においても、この隘路を超克する視点は未だ闡明にされているとは言えない。とくに、既存の解放運動とたんに順接的・連続的な結合関係のみ強調する同一化論に落ち込んでいることは、きびしく検討を加えなければならない点である。


この問題性は,われわれの陥りやすい問題性でもあるので,いっけん真実そうに見える次のようなJ・H・コーンの主張を、あえてあげておきたいと思う。これは、根源的基点にふくまれる構造・文節・力学,「神ノ業」《Opus Dei》と「人ノ業」《Opus hominis》の区別・関係・順序が闡明でないことから結果する問題性である。〔以下いずれも「解放の神学―黒人神学の展開」新教出版社〕。


「『解放神学』は、抑圧された社会の諸目標に無条件に同一化し,その解放闘争の神的性格を解釈するようにつとめる神学である。」
「黒人神学の思惟と行動を導く原理はただ一つ、世界における神の解放の業に照らして自己の実在を規定しようとしている、黒人共同体に無条件に自己投入すること――ただそれだけである。」
「はずかしめられ、したげられた人々に無条件に同一化しないキリスト教神学というものはありえない。」


神学は,現代の激動する「歴史」「革命」「解放」「政治」の状況と無関係にあるのではない。むしろ、現代の状況を,根源的基点・根本状況《Grund−situation》において、真に科学的に明晰判明にすることにこそ、神学の課題があるのである。その場合、必ずたんなる同一化の視座は超えられているのである。