『在家労働牧師を目指してー「番町出合いの家」の記録』(6)序章「よろこびのうちに生きる」第3節「随順・修行・卑下・社会性」

今回は、序章「よろこびのうちに生きる」の第3節を掲載します。


ただいま、今残っている写真類も取り出して整理を続けていますが、「1970年1月6日 初出の日」と裏書のある2枚の写真が出てきました。自分でも初めて見るとうな写真です。


長田の小さなゴム工場のロール場という労働現場の雑役として、1968年の4月から労働をはじめ2年近くが経った頃のものです。正月初出のときで、まだ人のいないときに、私が撮ったものです。


私もこの頃になると、「雑役」という役柄から、そこしずつ「ロール工」として扱われるようになっていた頃です。これは「初公開」デス。








それでは、今回の本文を掲載します。


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         序章 よろこびのうちに生きる



      第3節 随順・修行・卑下・社会性


ところで、われわれのこれまでの歩みで、もし少しでも積極的なものがあるとすれば、それはただ、瀧澤・延原などのこの道の先達の指し示す、根源的基点の力にのみよるのである。


もうすぐに10年ほど以前、1967年と68年の二回にわたって「牧師労働ゼミナール」〔日本基督教団兵庫教区職域伝道委員会主催〕が開かれた。いずれも尼崎教会を宿(どや)として、20名ほどの牧師たちが約1週間、工場労働を経験しながら共同生活を試みたのであった。題して「私は働きます」〔第1回〕、「わたしについて来たいと思うなら(マルコ8・34)−修行・卑下・社会性」〔第2回〕。


一般に牧師は、「世俗」の労働につかず、もっぱら教会の宣教と牧会を中心とした務めに就く。しかし、その務めそのものが正しく成り立ち健やかに展開されるためには、牧師みずからが、根源的基点(《インマヌエルの原事実《Urfactum》〔瀧澤〕・「実在的接点」〔延原〕)による新しい思惟に目覚め、その動態に組み込まれているのでなければならない。


かつてわれわれも小さなパンフ『現代における教会の革新―特に「礼拝のあり方」に関連して』〔1964年〕で、ささやかな試みを提示したが、さらにこれは、われわれ自身にとって牧師みずからの新しい出発へと進まねばならぬものであったのである。


「僕たちは、献身をして神学部で修行時代を送った。〔中略〕僕は今、ひそかに感じているのであるが、1週間の修行を、更に延長して、何のカタガキもない働き人として修行に出る」〔第1回報告書〕ことを意欲し、さらに翌年には、「自らの生き方のひずみを建て直していくという、最も基本的な出発点へと連れ戻され、その出発点から新しく生き始めるところに、思いがけない不思議な道が開けてくる」〔第2回報告書〕ことを見たのである。


このようなウォーム・アップのあと、われわれはこれまでの「教会」を背にして、自称「労働牧師」としての新しい出発をした。もちろん、それは確かに人の言うとおり、「ひとりの牧師が減って、ひとりの雑役工が増えたに過ぎない」とも言えるであろう。


「職安」で探し当てた「N化学」のロール場で、そこの雑役工がわたしの「仕事場」であった。それまで読むことを禁じていた、シモーヌ・ヴェイユの『工場日記』も、新しい労働のなかで読むことができた。


「夕方、疲れがない。美しい太陽が照り、さわやかな風の吹く中を、ピュトーへ行く、――〔地下鉄、相乗りのタクシー〕バスで、ドルレアン通りまで行く。快適、――B・・の家へ上がる。そして、遅く寝る。」〔『労働と人生についての省察』所収、79頁〕


これまで経験をしなかった新しい生活ではあるが、こうして「働くこと」は、人としてあまりに当然のことであって、決して特別のことではない。ひとは、この働く生活のなかで、信じて生きるのである。内村鑑三のあの気迫に満ちた『聖書之研究』など、新しい生活に活力を呼び覚ます貴重なものであった。次に,拙稿・日録『解放』からその一部をあげる。


「生活の中から自覚的につかみとった言葉,それが『解放』!なのだ。ベルジャエフの『真理とは何か』や『奴隷と自由』は深い励ましになった。部落及びゴム産業の現状も深い問題意識を呼び覚ましてくれた。僕のこれまでの生活の中には欠落していた言葉、それが『解放』であったのだ。そして、あらためて個人的にも社会的にも、古い我から、形骸化した諸伝統から解放されて、自立した新しい我、解放された我を常に探求していくことの悦びを知ったのである。解放! この言葉によって響いてくる声を洞見しながら歩まねばならない。」


こうして雑役工が数年後、ようやくロール士という一職人として成長した。そして、いくたびかの倒産の後、急性腰痛症で労災認定、転職のやむなきに至る。