『在家労働牧師を目指してー「番町出合いの家」の記録』(4)序章「よろこびのうちに生きる」第1節「近代主義を超克する視点」

今回も、本文に関連する写真を1枚、収めて置きたいと思います。


これは、21世紀に生きる私たちにとっても、決して忘れることの出来ない、大切な思想家として、また神学者のひとりとして見られている「カール・バルト」という方の顔写真です。


彼の膨大な著作は、戦前戦後を通うじて途切れることなく翻訳作業が続けられ、主要な作品のほとんどが日本語で読めるようになっています。現在でも次々と版を重ねて読まれています。





さて今回は4回目で「序章 よろこびのうちに生きる」に進みます。


この箇所は、実は別のブログ「滝沢克己ー新しい対話的世界」で掲載中の拙著『部落解放の基調ー宗教と部落問題』の第1章に、すでにスキャンして収めています。本稿の初出は『世界政経』という雑誌でした。


内容的に見て、1970年代に執筆して本稿は、本書の序章として座りが良いと判断し、文字に起こしたかたちで、はじめてここに掲載するものです。


ブログですので、長文を避け、先ず序章の第1節「近代主義を超克する視点」だけを掲載します。


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          序章 よろこびのうちに生きる
    
  
          1 近代主義を超克する視点


近年急速に宗教に対する積極的な関心が強まっている。それはたんに既存の制度的な宗教への期待というのではない。むしろ、今日の宗教を批判的に止揚し、宗教そのものを成立させる当のもの、つまり根源的基点とでも言いあらわすべきものへの積極的な関心であり、この根源的基点から湧出するところの、新しい思惟と行為への期待なのである。


近代、ことに日本の近代は、この根源的基点への探求を正確にたどるゆとりのないまま、近代化を驀進せざるを得なかったのであるが、現代に生きるわれわれは今、この近代の空洞に痛切に気付きはじめている。すなわち、人間としてのもっとも重要な「足台」がしかと踏みしめられず、大地から足が浮いていたことにも気付くことなく、漠然とした近代人の誇りに翻弄されながら、ここまで突っ走ってきたのである。そして物質的・精神的を問わず、この根源的基点の曖昧と無視によって、『私的簒奪』《Privateigentum》を招来し、あらゆる時と場所で抑圧と差別を結果せしめてきた。


従来の近代主義的な宗教も、ほとんどの場合、この近代の空洞と抑圧・差別を、根源的基点から解放する知見を身をもって証しするかわりに、これにつけいり逆用して自己目的的な「宗教の復興」をもくろむことをよしとすることで、今日まで生き延びてきたと言わねばならない。それもまったく「善意」のうちに。


あらためて指摘するまでもなく、現代に生きるわれわれにとってもっとも重要な課題は、これらの「宗教の復興」で近代の空洞を安易なかたちで埋め合わせることにあるのではない。むしろまったく逆に、「宗教」を含むすべての思惟と行為の根源的基点を明らかにし、そこから湧出する新しい思惟と行為を証示することにこそあるのである。


もともと宗教はもっぱらこの課題に答えることを本務とする。つまり、人間の営みのもっとも根本的な出立点とその帰趨にかかわる事柄を明晰判明にすることにあるのである。したがって、宗教は万人共通の心の基軸・芯にふれる、朝夕瞬時の具体的な事柄だと言わねばならない。


このような視座から見るとき、じつに幸いなことなのだが、新しい思惟と行為の根源的基点を明らかにする晴朗な徴表《Symptom》のあとは、すでに着実にたどられていることを知ることができる。


その第一人者は、何と言っても、あのユーモアにあふれた20世紀を代表する神学者カール・バルト(1888〜1968)であろう。


彼は、日本では『モーツァルト』〔新教出版社、1966年〕などで知られる以外多くは知れていないが、少なくとも神学・哲学の世界においては、あまりに著名な先達である。


なかでも彼が「発見者の喜び」のうちに物した画期的名著『ローマ書』以後、エーミル・ブルンナーの近代主義的思惟の残滓をもつ「自然神学」《Theologia naturalis》を厳しくしりぞけ、断固たる「否!」《Nein!》をなげつけたことは有名である。まさに彼の神学は、その断固とした表現のなかに、新しい思惟と行為の根源的基点を証示する「発見」《Entdeckung》の迫力がこめられている。


そして、さらに幸いなことに、この画期的な「バルト神学」にもなお清算すべき旧い思惟、つまり孤立的・抽象的な西欧的思惟の習癖が残るとして、1934年以来今日まで、日に日をおっていっそう思索の厳密を期す「神・人学者」瀧澤克巳(1909〜)があげられる。〔カール・バルトは、神学を「神・人学」《The−anthropologie》と呼んだが、瀧澤の学問は文字通りそれにふさわしいであろう。〕


瀧澤の著作は、『著作集』全10巻〔法蔵館〕のほか多数におよび、多くの人々によって深く読まれつづけている。ただし、瀧澤の師・西田幾多郎が最晩年に「私の論理というのは、学会からは理解せられない、否未だ一顧も与えられない」〔絶筆「私の論理について」〕と記したごとく、彼の学問にたいしても同様の事態のあることも否めないところである。


しかし、現代に生きるわれわれが、今ここで「新しい一歩」を踏み出し、真正の宗教の基点を問いなおし「新しい歴史の創造」に参画しようと志すとするならば、どうしても西田の『思索と体験』のあとに、また瀧澤の『わが思索と闘争』のあとに、学ぶ必要のあることだけは確言できるであろう。