『在家労働牧師を目指してー「番町出合いの家」の記録(2)「はしがき」前半

前回からアップを始めた『在家牧師をめざしてー「番町出合いの家」の記録』は、まえの「目次」に続いて今回は、「はじめに」のところの、半分を掲載します。


いまこれを読み直してみると、これを纏めたのは「2004年9月」となっています。


私もしっかり耄碌しているようで、前回には、これは2007年の『賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて』を出版して暫くして纏めていたようなことを書いていました。


ともあれ、少々昔のものですが、これもひとつのドキュメントとして、掲載を続けます。後半は次回に回します。


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               はじめに
 

10年前の大震災で、私たちの住まいも全壊となった。さいわい、いのちと共に、大切な書籍や資料類も無事だった。いろいろあってふたたび、再建された住宅にもどり入居がゆるされた。


そして先年、必要があり「賀川豊彦没後の40余年―21世紀を生きる・私的断片ノート」を纏めるために、押入れのダンボール箱に詰まったままになっていた古い資料を取り出す機会があった。(本稿は兵庫県人権啓発協会発行の研究紀要第4号に収められた後、2004年10月神戸新聞総合出版センターから『人権の確立に尽くした兵庫の先覚者たち』として出版される)。


さらにこの夏は少し時間的余裕をえて、若いころから現在までの未熟な論文や講演草稿など年代順に整理・分類などしてみた。


というのもこれは、狭いわが家に少しでも書籍を収めるスペースを確保する必要に迫られたからでもあった。そして後期の「部落問題と人権」の講義が、神戸市外国語大学での65歳定年による最終講義ということもあって、今回は1960年代後半から現在までの、部落問題に関連する個人的経験を交えて物語ってみたい、と考えたからでもある。


わたしにとって柄にもないことであるが、これまで必要に迫られ数冊の著作をまとめる機会があった。ちなみに列挙してみると、1976年には18組の結婚家庭をお訪ねし、幸せをつかんだお話に「序章」をつけて編集した作品『私たちの結婚―部落差別を乗り越えて』(兵庫部落問題研究所)をかわきりに、1985年には『部落解放の基調―宗教と部落問題』(創言社)を、1988年には『賀川豊彦と現代』(兵庫部落問題研究所)を、1997年には『「対話の時代」のはじまり―宗教・人権・部落問題』(同前)を、そして2002年には『賀川豊彦最発見―宗教と部落問題』(創言社)を、それぞれ仕上げることができた。いずれの作品も、部落問題をめぐる激動の渦中で、試行錯誤の中で生まれたノートであった。


ところで今回ここに並べてみたものは、私たちが第一線で働きだしてから激動の1970年代のはじめまでの、およそ10年間の生活記録である。
それ以後の、悪戦苦闘のノートは、前記のそれぞれの作品の中に、その概略はまとめられているので、私たちにとっては、新しい歩みを始める「助走」と「スタート」のときの、いわばいちばん「いのち輝いた」時(?)の、本来は表には出さずに「隠されてあるべき記録」である。


1964年春は、新卒で新婚ほやほやの時出会った。
はじめて赴任した琵琶湖畔の小さな「家の教会」でのかけだしのときに、矢継ぎ早に、ふたりの幼子を授かった。


そして生活上のこともあって2年後には、神戸の下町の教会に「出稼ぎ」に出て、そこで私たちに備えられていた「新しい道」に出合うことができた。


かくして1968年春からの、私たちの「新しい生活」が始まったのである。


当時、世界中が思想的にも沸き立った高揚期であった。
私たちはこのとき、地底にもぐりこんだ「モグラ暮らし」を意欲したのだった。そのころの生活記録は、うちうちとはいえ公表してきた作品であるが、今回は、その中からいくつかを選び出したものである。どれも取り立ててどうと言うほどの記録ではないが、現在とこれからの歩みには、大切な糧でもあることを、整理を進めながら思わされた。


最初、ひとつひとつに短いコメントを加えようかと考えていたが、あの激動の10年の経過などを書き込んでいた論稿も、ほかにいくつかあったので、その中から、巻頭の「序章」と第6章・第7章、そして「終章」とに収めることで、多少当時の時代状況が浮き彫りにできるのではないかと、考えた。


従ってこれは、副題のように「番町出合いの家」の記録であり、その「第1回資料集」ということになる。