賀川豊彦の畏友・村島帰之(53)−村島「現代世相の一断面」

 引き続いて今回も村島論文を取り出して置きます。
 昨日は古書で昭和初期に企画された賀川豊彦編集になる『家庭科学大系』の一冊で第32回配本のなかに村島の「何が彼を不良児にしたか(後編)」があることを知り手に入れました。いずれここに収めることができるかもしれません。


      「雲の柱」昭和6年2月号(第10巻第2巻)

      社会研究
      現代世相の一断面
         ―慰安對象の立場から
                      村島帰之
      
    慰安の對象

 一体、勤労によって発生した心身の疲労といふものは少しの時間、休憩しただけで回復するものではありません。叉一夜の眠りだけでも、十分癒えるものではありません。是に加ふるに娯楽的変化があって、始めて一日の労苦、疲労を忘れ、更新された心と力とを以って、翌日を迎へる事が出来るのです。

 慰安の對象となるものは大変多く、これを一言では申せませぬ、例へば、所謂楽しみ(プレジュアー)快楽(アミューズメント)遊戯(プレイ)として挙げらるる一切のものを始めとしまして、道楽、嗜好、御馳走、気晴し、くつろぎ、隙つぶし等等、荷しくも、人間の感覚機関を通じて喚び起される精紳の満足された状態が、凡べて、慰安の対象となるのです。そして、この慰安の對象あるが故に、人は常に更新された心と、力とを以って、日々を送る事が出来るのです。

 若し、慰安對象となるべき一切のもののない世界が仮想されるとしたら、それは如何に暗い、憂鬱な、生甲斐のない世界でせう。近年農村の青年男女が、都を憧れて来るのも、要するに、より多くの慰安對象が、都會に存在するために外ならないのです。

     文明と刺戟の増加
「文明とは、刺戟の連続的増加である」と申した學者があります。その刺戟の増加は、当然の結果として、人間を、精紳的にも、叉身体的にも、病的にするのです。そして、その病的状態から脱するため、更に他の刺戟を求めて、いよいよその病的状態を高めて行く許りであります。
 どん底生活者の一部には、近年、モヒ中毒患者が殖えて来ました。彼等は、初めホンの慰みにモヒを注射して快感を楽しんでゐたのでせうが、それが、いつか中毒になって、モヒの利いてゐる中は元気だが、モヒがなくなると、まるで死んだ様になって、動く気力すらなくなるのです。それで、彼等はパン以上に切実にモヒを要求しそれを得るためには手段を選ばない。盗みをしてモヒに換えモヒを注射して刹那の快感に浸り、モヒの気が失せると、また耐らなくなってモヒを得るために盗みをする。盗みと注射の間は、公園や街頭に「生ける屍」となって横ってゐるのです。この生ける屍のモヒ中毒患者が大阪市内だけでも三千はゐるだらうといはれてゐます。
 また或學者の研究によると、二十年前には平均五十歳にならねば老眼鏡の助けを借りる必要のなかったものが、今日では平均四十五で老眼鏡が必要となってゐると申します。叉白髪も同様で昔は白髪の生えるのは五十以上であったが、今日では三十才から白髪が生え、中には二十才台でボツボツ白髪が生える人もあるのです。斯ふなると、今に赤ん坊が、白髪に老眼鏡をかけて生れて来るかも知れません。
 兎に角、刺戟は強くなって来ました。わが國について例を取って見ましても、まづ街頭に出るとわれ等の眼を射るものは、強烈な「ネオン、ガス」の光です。唇の全面を薄色にぬった女の唇です。耳に入るものは、狂はしげなジャズの急速な音です。舌にふれるものはアルコール含有六〇度のアブサン、五〇度のジンです。これらの強い刺戟に人々の理性は蒸発し、意志は滅却し、その代りに動物的な情慾が頭をもたげて来るのです。

     刺戟と慰安の関係
 かうした強い刺戟が、何故、供給されるかといへば、いふまでもなく、近代の人々が、さうした刺戟をとらねば慰安を得られないからであります。それほど、近代人は機械的な労働によって神経をすりへらされてゐるのであります。そして、この刺戟の強い慰安が、人々を神経的にして、その結果、更により多くの刺戟を求めさせるのです。
 最近における一般慰安對象の飛躍的変化の第一は、このより刺戟的になった社會的環境に順応して行くために、必然的により強い刺戟を求めるやうになって来た事であると云へませう。ジャズはその代表的なものです。

 ジャズ
は古からアフリカのニグロの間に行はれてゐた野生の音楽で、ニグロの男女は野獣や殼物を豊富に与へてくれた神々に感謝するため、ユーカリの樹下で野太い肉慾に合せて、騒々しい而し単調な太鼓をたたき乍ら踊ったものであるといひます。そして、それは或る時はいやが上にも彼等の闘争心を鼓舞し、或る時は、涙ぐましい静けさを彼等の心の上に、置いたのでした。
 それから、今を距る三百年前、和蘭の貿易商人によってアメリカに奴隷として賣られたアフリカ土人が、南部の棉花園や、ニューオルレヤンの堤防の下で故郷忘じ難きまま、手製の太鼓に合せて歌ってゐたのが、ついにアメリカの酒場に持込まれ、更に舞踏室に躍込むに至ったのだといひます。ジャズは陽気ではあるが、やるせなさ、悲しき陽気、焦燥な、そして絶望的な陽気をひびかせます。その悲しく、やるせなさ、いらだたしい陽気が刺戟を求めてやまぬ近代人の心に、ピタと来るのであります。
 このジャズを、日本へ持って来たのは、ヒリッピンのバンドで、恰度五年前の事でした。始めは紳戸オリエンタル・ホテルヘ来てゐたのが、大阪道頓堀のダンスホールヘ出るやうになり、ついでその他のダンスホールやカフエーでもこれを用ひるやうになり、更にその曲目の中へ日本の小唄を取入れるやうになって、急スピードで若い日本人の心の中へ浸入して行ったのです。

 小唄といへば、小唄の代表者は「カフヱー小唄」と「映画小唄」でありませう。カフェー小唄は「かれすすき」に初まりましたが、五年前、ジャズが這入って以来、「昔恋しい銀座の柳」の東京行進曲を始めとして各種の行進曲が続々として唄はれ、今日では尋常一年のこどもが、「なんでカフェーが忘らりよか」なんて唄ってゐる始末です。
 映画小唄も、澤蘭子主演の「籠の烏」を手始めに「波浮の港」「紅屋の娘」等々と、矢継早に作られました。
 加ふるに「地方小唄」です。やれ「草津節」だ、やれ「三朝小唄」だ「祇園小唄」だ何だと小唄ファンは応接に逞なき状態です。そして藤原義江までが此の潮流に巻込れて「をけさ節」その他を蓄音機に吹き込むといふのですから、昭和の五年間は、正に小唄の洪水です。そして、その洪水の件奏を勤めたものはジャズでありました。哀れっぽいサキソホン、訴へるやうなクラリオネットが、急テンポを以て若い日本人の心を捕へたのでした。
 元来、ジャズといふ言葉は、急速な運動やすばしっこい行動を意味するのです。つまり今日の流行語である「急テンポ」「スピード」に当るのであります。
 このジャズが意味する處の急テンポは、現代人の要望する慰安的対象の最大特色で、ただに音楽だけでなく、演劇その他にも及んだのでした。

 レヴュー
 演劇は期せずしてレヴューの形式をとるやうになりました。レヴュー式といふのは、冗長な筋を追ふて、同じ幕を永く観客の前に曝け出して置くやうなまどろつかしい事をせず、めまぐるしいまでに場面を急転換させて行くといふ急台形式であります。宝塚歌劇團が二年前、初めてモンパリに於いてレヴューをやったのを筆頭に、松竹楽劇部でも、河合ダンスでも、東京のカジー、フォリーでも、廣島の羽田歌劇でも、レヴューの全盛です。歌劇團許りか、卓子ぐらゐの廣さしかないカフェーの舞台ででも、レヴューと銘打ったものが上演されて急速なるテンポと、新しいモードとを以て刺戟的な感覚の世界を描き出さうとしてゐるのです。宝塚でやってゐたレヴューダンスオリンピツクなども十八場景を三四十分で演了して居ります。

 暴露美時代 しかしレヴューの魅力は、この急テンポといふ時間的関係以外に新しいモードがあります。即ち暴露美といひますか、裸体美といひますか、美しい肢体を露はにして性的魅力を惜しみなく発散するといふ点があるのです。もう顔の美しさではありません。肢体の美しさなのです。レヴューの踊子は素より、映画俳優も、ダンサーも、いや、女給さへもが、肢体美第一の時代になりました。愛知医大では、外科手術によって、練馬大根のやうな太い足から脂肪をぬいて、細っそりした美しい足に作りかへてくれるといふので、その手術を依頼する娘さんが引きも切らぬといはれゐるのも、明治大正時代の人々の夢想だにせなかった所でせう。

 今から十年も前には、一枚づつうす羅物をぬいで行くサロメのダンスに、なやましさを覚へましたが、レヴュー時代の今ではサロメなどは問題ではありませぬ。

 白井鉄造氏の話では、パリなどではサロメの上を行って、幕切れには向ふ向ではあるが、踊子が全身裸体となって、アッといってゐる瞬間、幕がおりるといふのさへあるといひます。正に「暴露時代」です。

 本統に時代ですな、或る種の若い御婦人の夏の洋装などは、此方で面を伏せざるを得ないのさへあるではありませんか。

 カフエー
 では、この暴露美を営業政策として用ひてゐます。或る北大阪のカフヱーでは、尻まくりダンスをやって、浅間しくも、客をしてチップを少しでも多くはづませやうとしてゐるのを現に知ってゐます。叉矢張り此方のカフヱーですが、洋装の女給が、その露出した太腿に、客をしてペン先で落書をさせて、一種のマゾヒズムス的な性的感興を賣ってゐます。

 暴露的な、あまりにばくろ的なと嘆かねばなりませぬ。
 暴露的になったといへば、近頃のモダン婦人職業の一つであるマネキンガールの如きも、その現れでありませう。月にさへ姿を見せまいとした日本女性が、ショーウインドの人形に取って変ったといふのですから、暴露も徹底してゐるといはなければなりません。
      
 映画 最近五年間に於ける映画の変りやうは叉特別でした。わが国に於ける活動寫真がトーキー化したのもこの期間の出来事でした。即ち昭和四年五月九日、東京武蔵野館で、「進軍」を上映したのを最初として、トーキーが全國を風靡しました。これについては多くを云ふ必要がないでせう。

 それよりも最近の映画が、さきに述べたレヴューと同じ、刺戟といふよりも性的魅力をその狙ぴ所にしてゐる事をあげた方がいいでせう。

 映画のファンの仲間にイツトといふ言葉があります。イツトとは「性的魅力」といふ意味であります。クララ、ボウのそれに、ファンは高度のイツトを満喫したのでした。

 尤も最近はイツトよりも健康美がもてはやされかけました。叉一方女性のフアンの側では、従来の色男がもてずに、却ってバンクロフトやビクター、マツクラグレンの如きグロテスクな、野蛮美といった様な物に人気がある様です。正に美の價値のてんとうです。

 これ等の音楽やレビューや映画は、慰安對象としては「情熱的對象」の部類に這入るので、いづれも感覚機械の刺戟を求めて満足するところのもので、近時における此の種の方面の発達は、特に著しきもののあるを認めねばなりませぬ。そして、この種の對象においては男女の間に余り差を認めませぬ。刺戟を求め、情緒を愛する点は同じであるからであります。

     遊技本能的慰安

 次は本能的慰安對象でありますが、この中で尤なるものは競争本能を中心とした諸種の競技、それから遊戯本能を中心とした遊戯群居本能を中心とした諸種の社交的慰安から発生する慰安對象であります。

 競技方面では、女子は遥かに男子に遅れてゐましたが、最近四五年の間に、俄然として振起されました。女子競技と云へば、直ぐ人見絹枝さんを連想いたしますが、人見さんが、スエーデンで催された國際女子オリムピツク大會で巾跳で優勝し、剰へ五米五〇といふ世界記録を作ったのも、一九二六年今から五年前の事であります。人見さんによって、日本の女性の競技的能力が世界的に認められた訳であります。人見さんが彼地から帰朝し、大阪毎日に帰社した時、私たち同僚は歓迎會を開きましたが、その時一人の先輩は人見さんのこの國際的成功を以て、神功皇后以来の事だとし、人見さんを重役待遇にせよといって、皆を笑はせた事がありました。人見さんはその後、重役にもなりませんが、人見さんの成功が、女子のスポーツを盛ならしめた事は贅言を要しますまい。

 水泳と女性美
 水上競技は前にも述べました「暴露美」が此のスポーツによって涵養されるといふ功利的な考へも手傅ひ、従来は、恥かしがって容易に着物を脱ぐ事をしなかった女性を裸体にしました。殊に、この数年前から、各地にプールが設置されるやうになって以来といふものはいよいよ此の方面の発達を促した様です。私の社の永井花子嬢の如きは、冬季でも新世界の温水プールヘ出かけて水を蹴って居りまして、健康美を保ってをります。

 庭球や、スキーや、ゴルフについても、多くをいふ要はありますまい。
 かうした女子スポーツの発達は、婦人の発育の上に大きな貢献をしました、統計によりますと女子の身長は十九歳の婦人で、
 明治三十四年(今から三十年前)に一米四七
 同 四十三年(今から二十年前に)一米四八
 大正八年(今から十年前)に一米五〇(約五尺)
 それから今日では優に一二寸は延びたにちがひはありません。

  競技を見る慰安
 なほ慰安對象としての競技の中には、競技を自身やるのでなく、他人の競技を見るファンを含むことになりますが、野球、庭球フットボール、ボクシング、就中野球に對する婦人ファンは毎年殖える一方です。或る女性は投手のモーションに「舞踏的美」を見出すと云ひ(これは水谷八重子さんでした)叉或る女性は捕手に憧れを持つと云ひました(これは伏見直江さんでした)。伏見直江さんの如きは、京都の某中學選手に對する熱狂が過ぎて、選手を御馳走によんだ事から選手が退校を喰ふといふ騒ぎさへ演じました。選手が女性にモテルことは素晴らしいもので、官武氏や小川氏などは、映画のスター以上の気のやうです。

 先日、極東オリムピック大会で比律賓選手と、東京の三輪田高女の女學生との間の醜行が暴露したといふのも畢竟この運動選手に対する憧憬が災ひしたものでありませう。ここにも、女性の慰安對象の一断面が見られると申すべきでせう。

 両性本能的慰安
 両性本能の方面では昔はカルタ會のお手つきに、わづかにこれを享楽した位でしたが、此の頃では非常な解放振です。そしてその解放の直接で且つ最大なものとしてはダンス場の興隆をあげませう。

 大阪では昭和二年十二月廿六日限りダンスは禁止になってゐますが、府の境界線を一寸出れば、尼ケ崎から西宮へかけて、多くのダンスホールが待ってゐます。そして、こき姦通事件を惹起した貴婦人さへあったほどです。是も時代の所産の一つでせう。

 また近来しきりに唱道される友愛結婚とか、産児制限とか或は性文學の流行とかもみなこの両性本能を慰安の對象とする近代人の一つのモガキなのでありますまいか。

 また慎み深い女性が、好きな映画俳優のプロマイドを懐深く秘するどころか、より多く持ってゐる事を誇りとして、他人に誇示するのもそれでありませう。それと奮式の金と力はなかりけりといふ色男型よりも、金はなくとも力のある男性的な健康美、進んでは、むしろ、グロテスクな容貌を愛翫して、そのプロマイドを聚集する傾向なども、最近数年間に現れた特異なる傾向です。日本の映俳で鈴木傅明のプロマイドの賣れるのもそのためです。モウ近代女性は無表情な人形などをほほづりして楽しんではゐないのです。

    思想的慰安

 なほかうした情感的、本能的の對象以外に思想的方面の對象のあることも無硯出来ませぬ。文學は慰安のためにのみ存するものではありませぬ。が、しかし、文學は同時に、また慰安の對象となり得る事も争へない事実です。近時の文學の流行は、エロチック文學、ナンセンス文學、暴露文學、プロ文學で、更にプロ文學はアナ系とボル系、即ち無政府主義的イデオローギーを奉ずるものと共産主義イデオロギーを奉ずるものとに分れて対立してゐますが、婦人の間にも同様の分脈があって、ボル系は「女人芸術」を城とし、アナ系は「婦人戦線」をトリデとしてゐます。かうした婦人読書階級に、思想的分野の出来たことも、実にこの五年間の出来事です。日本の婦人は大正年間に「社會」を発見しましたが、昭和年間に這入って「社會組織」を認識したといへませう。

 最後に、また最初の音楽へ帰って、最近五年間における慰安對象の最大の変化として、ラヂオに説き及ぼさねばなりませぬ。

 ラヂオの普及 ラヂオの普及は慰安對象の革命でありました。第一に近来の慰安對象が外へ移行したのでした。例へば、茶の間の談笑が倶楽部の談笑に移り、台所のクツキングがカフェーや食堂の、より社會化された調理を味ふやうになり、書斎の読書が圖書館の読書となり、庭先のそぞろあるきが、ドライヴに変わったといった按配。かうした、兎もすれば慰安を得んとして家庭を外に出やうとする世人の足を家庭内に止めさせて、静かに家族と共に講演を聞き、ゲームを見、演芸音曲を楽しませた功は、偉大であります。

 しかし、それよりも大きな功績はラヂオにより各般芸術の大衆化であります。家庭化であります。ドレミフハの音階を知らぬ老人にグランドオペラを聞かせ、世界的声楽家の肉声を聞かせて兎に角、西洋音楽といふものの輪廓を教へ込んだ丈けでも、また二上り、三下りの何たるかを知らぬ若い人達に、長唄や、清元の趣味を、おぼろ気であっても吹込んだのは、断然ラヂオの力と申さねばなりませぬ。

 各種の講演が一般文化の上に及ぼした効果、各種の運動競技の放送が運動に對する趣味をより普及させた効果をあげ来れば、ラデオが作り出した効果は大きなものであります。特に従来消極的で引込思案で新らしき知識を摂取する機會のなかった婦人、盛り場に賑々しく人を迎へてゐる娯楽場へも這入ることや、競技場のスタンドに男と伍してゲームを観覧する事の躊躇されてゐた婦人、そうした社會の各種慰安對象から殆んど隔離状態に置かれてゐた婦人をして、あらゆる慰安を享楽することを得せしめたのは、全くラヂオのおかげでありませう。その意味でラヂオは男性よりも女性から、より感謝を受ける値打があると信じます。

 慰安に對する男女の機会均等が実現されたのです。慰安のデモクラシ―です。男女は働く事も同じなのですから慰安も同一に得る資格があるのです。

 以上、縷述した慰安は、機械的労働によってすりへらされた現代人の神経を鎮めてくれます。しかしそれは一時的の鎮静剤であることは申すまでもありません。徹底的なものでは勿論ありません。

 キリストによる衷なる慰め! それを措いて他に真の慰めはないのです。