新著ブログ公開:『爽やかな風ー宗教・人権・部落問題』(第11回)





         爽やかな風


    −宗教・人権・部落問題ー


             第11回



    第三章 宗教の基礎ー部落解放論にかかわって


     (前回の続き)


   第2節 宗教の基礎(そのI)


    1 今日の宗教および宗教批判


 さて、前節で何のことわりもなく「宗教の基礎」ということばをいく度も用いた。また本章の主題にもこれを掲げている。まずこの表現の意図を明らかにしておかねばならない。


 が、その前に、宗教とは何かについて規定しておくべきであろう。「宗教の定義は宗教研究者の数ほどある」(注14)といわれるほど、その接近方法は多様である。宗教と部落問題を論ずる場合、仏教など特定の宗教もしくは宗教教団を考察の対象とすることも欠かすことはできない。しかしここでは、特定の宗教教団への所属云々を問わず、むしろすべての人間の精神現象のあらわれとしてこれをみて、「宗教とは、人間の根源的基礎との関係表現である」と定義して稿をすすめたいとおもう。つまり、人間の根源的基礎が宗教の根源的基礎であり、人間と根源的基礎との関係表現が宗教である、とみるからである。


 そしてここで基礎とよぶものは、この根源的基礎をさしている。この基礎はしかし、たとえば仏教的な「空」「無」「法性」「仏」、キリスト教的な「神」など古来、それぞれ特有の把握のされ方がなされてきており、こんにちそれらの相互理解の興味ある試みがすすめられていることは注目されなければならない(注15)。こうした宗教の基礎の探求は、少なくとも宗教を正しく理解(批判)する上で必要不可欠な取りくみのひとつである。


 そして、この課題は、特定の宗教の専門家にまかせてすむ性格のものではなく、まったく万人の眼で、この問いの答えが探ねられ、見出されるのでなければならないのである。当然のこととはいえ、宗教が成立するためには必ずその基礎がなければならない。そしてその基礎が、たんなる人間の要請によって作為され、つくられた基礎であるならば、その基礎は人間にとって絶対不可欠な基礎であるのではなくて、有っても無くてもよいたんなる措定物(偶像もしくはたんなる幻想的観念)にすぎない。


 ところで、現代人の宗教にたいする見方は、宗教の基礎感覚とでも言えるものを欠いている場合が多い。たとえば、八木晃介氏はつぎのような立論で宗教をとらえる。「宗教はいうまでもなくイデオロギーの一種であり」「宗教イデオロギーはすべて不可知論である。その内実は、いうまでもなく全面的な主観主義である」(注16)と。たいへん歯切れよく、宗教は「イデオロギー」で「不可知論」「主観主義」だと断じて論を展開するのである。したがつて、宗教(批判)の基点であるその基礎理解を欠いたままに「個人の救済と社会の変革」の結合を説こうとするために、せっかくの重要な問題意識が、十分な説得力と根拠をもって展開しえなくなっている。眼前の「宗教」を論じても、宗教(批判)の基礎が明晰でなければ、その論議はつねに土台を見失った不毛の空中戦とならざるをえないのである。


 こうした見解は、ひとり八木氏のものではなく、近代の宗教批判の根本にある考え方である。そこには、「もともと宗教は人間がつくるのであって、宗教が人間をつくるのではない、大事なのは宗教ではなく人間である」といった、或る意味ではもっともな、いわゆる「人間主義的」で健康な理解として、近代人の思惟をよみがえらせたのは事実である。そして宗教といわれるものは、人間の日常生活を支配する外的な諸力が人間の観念のなかに幻想的・空想的に反映しているものであるとみて、宗教の批判がおこなわれてきたことは周知のことである。


 したがってそうした視点から、宗教をとらえる見方は、こんにち一般化しているようにもおもわれる。たとえば、部落問題との関連でつぎのような表現がみられる。①は藤谷俊雄氏の、②③は「全解連の態度」の見方である。


 《宗教において神や仏のまえにおける平等を説くのは、信仰の世界における平等無差別であり、それは精神的、観念的なものである。(中略)現実世界における破りがたい不平等や差別の壁の存在のゆえに、信仰の世界に解説、救済を求めたもの》(注17)①


 《現世での差別の苦しみを『あの世』で解放されようとする切実な願いによるもの》(注18)②


 《民衆の悩みに依拠して出発した宗教》(注19)③


 こうした見方はもちろん、宗教現象の一面の性格を適確にみたもので、人間の現実逃避的要求に根ざした、いわば消極的・否定的な宗教理解に立つものといえよう。


 しかし、ここで宗教の基礎とよぶものは、人間の「切実な願い」や「求め」が生ずる前から(単に時間的な前ではない)捉えられている基礎をいうのである。そもそも人間の事実存在も、その「願い」や「求め」も、この積極的な基礎ゆえに生起するのだといわねばならない。単に人間の要請によってつくられたものであるならば、人間の手によって自由に処理可能なのであるが、宗教の基礎は人間の基礎と同義であるから、これを人間がつくりかえたり、無視したりすることはできないようにできているのである。


 さきに、「宗教とは人間の根源的基礎との関係表現である」と記したが、人間にとって不可避な課題は、この根源的基礎=宗教の基礎=に即応して自由に生きることであり、この基礎を求め、発見することにあるのである。


 ここでいう基礎は、文字どおりすべてがそこからそこへむかう土台としての基礎である。その意味で、万人の基礎が確固と据えられていることを、宗教は発見し、その消息に生きようとするのである。たんなる理念・理想・願望によって措定された夢のごときものではなく、確かな基礎の創造作用、形成力の働きとして湧き出たものとして、はじめて生きた宗教といえるのである。宗教が基礎をつくらず、基礎が宗教を成り立たせるのである。基礎はつねにだれの目にも隠されていて私物化できない。またそうする必要もまったく要らない。この隠された基礎を基礎として立つことこそ、宗教の本来の面目はあるのである。


 この意味では、この世界に唯一絶対の宗教など存在しない。あるのはただ、基礎のひとつの徴表・反響としてあるだけである。宗教の独善性や特権性は、この基礎からつねに無用のものとされていく。宗教の虚偽性は、その成り立つ基礎を見失うことからくる。宗教あって基礎があるのではなく、基礎があって宗教があるからである。


 このように、宗教とその基礎との区別・関係・順序について、より精確に見極める努力をつづけることは、宗教を理解し批判的検討をすすめる上で、もっとも重要な視点のひとつであるといってよいであろう。そこから、歴史的に伝統の異なる諸宗教・諸思想の開かれた対話が生まれてくるのである(注20)。


 宗教教団が、運動団体などとの対話をすすめるのも、こうした自由な相互批判を可能にするその基礎に開かれているのでなければならないであろう。


    2 いわゆる「教義の点検」をめぐって 


 ここで、宗教の基礎から成り立つふたつの側面、つまり「新しい思惟」と「新しい行為」についてみておく必要がある。一般にそれは、理論と実践の問題としてとらえられる事柄である。部落問題とかかわって、宗教が問題となるとき、ひとつにはその宗教のもつ教義(認識・理論)上の問題性であり、他方その宗教の具体的・歴史的な信仰行為・生き方の問題である。この両側面の区別と関係が、宗教の基礎から明らかにみられるかどうかは、これまた重要な点である。従来、両者はどちらかに重心がかけられ、混同されて論じられることがしばしばであった。両側面を、宗教の基礎を介して成立する独自な側面として固有に見極めることは、方法論的に未確立のままであったようにおもわれる。


 たとえば、松根鷹氏はつぎのようにいう。


 《まず自分達の教義そのものから点検し、社会とのかかおりあいを作っていかない限り、同和への取り組みも身の入ったものにならない》(注21)


 つまり、「教義の点検」から「社会的実践へ」という方法である。そして、その教義の点検において、「反差別の論理的根拠を見出せない場合、宗教者自身がわが身をもってその教団を解体する覚悟があるかどうか、今はまさにその点が問われている」(注22)といった八木晃介氏の一見ラディカルな主張ともなるのである。


 しかし私たちにとって大切なことは「教義の点検」とか「反差別の論理的根拠」とかいわれている内容自体も含めて、宗教の基礎において根本的・積極的に検討しなおすことでなければならない。「教義の点検」と称して、「反差別の論理的根拠を見出せない」とのあまりの性急な判断で、教義の更に隠された宝をみすみす見失うようなことがあってはならないのである。「教義の点検」といわれるものが、その基礎から基礎にむかってすすめられるかぎり、それは必ず宗教(教団)の改革もしくは宗教革命と称さるべき、新しい覚醒をもたらさざるをえないであろう。宗教にかかわる学問は、必ずこうした教義の批判的再検討を志すものでなければならない。教義については、あくまで教義の批判として独自に吟味検討される必要があるのである。


 ところで、宗教のもつ教義上の問題と同時に他方、宗教の行為面・生き方の問題についても、その基礎からの独自な吟味を求められることはいうまでもない(注23)。一般に、考え方が正しければその人の行為も正しく、考え方が間違えばそこから出てくる実践も必ず間違うとみられている。


 たしかに、その人の物事にたいする感じ方・受けとめ方が的はずれでなければ、日常のひとつひとつの判断も大きな間違いも少ないであろう。しかしながら、人間の行為・実践というものは、その人の理論・認識が正しくなされておれば必ず正しい行為となるというものではない。全く逆の場合もありうるのである。世にいう「宗教者」よりも「無宗教」を認ずる人々の方が、また「専門家」といわれる人よりもむしろ「素人」の方が、宗教の基礎に即応した自然な人間らしい生き方が息づいている場合がしばしばであることも、このことはすぐわかることである。


 さて、さきの「教義の点検」から「社会的実践」へという批判の方法とは逆の方向が提起される場合もありうる。たとえば、加藤西郷氏のつぎの発言がそれである。


 《単に教義をどんなにひっくり返して、その教義にこう書いてあるから部落問題とどうだ、とそんな発想では、私はもう解決にならないと思うんです。教えの中ではこういうふうに言っています、とか、そんなことを何度言っても意味はない、という気がするんです。そうではなくて、教えの中で、直截に我々が本当に生きているのか、どうかということを、もう一回問い直すということのほか、ないんじゃないかと思うんです》(注24)(一部省略して引用)


 これは、「生き方の直截さを問い直す」点を強調することにおいて、重要な指摘である。しかし、さきにみたように、「教義の点検」の積極的な意義をさけることは正しくない。宗教教団の「教義の点検」は、ほとんどいつも、ここでいわれるような自己弁護・合理化のためのそれに傾くにしても、そうであればあるほど、教義の吟味は必要なのである。また、教義の吟味が必ずそうした自己弁護・合理化になるとは限らないことも、前にみたとおりである。


 なお、運動による宗教教団への「糾弾」のあり方にたいする批判や教団の対応にみられる問題性について、これまで若干ふれたのであるが、右のような宗教の教義や実践内容の検討作業は、具体的にはどのようにすすめるべきであろうか。


 いうまでもなくこの課題は、宗教教団の日常的な検討課題であって、藤谷俊雄氏の指摘のように、教団自ら主体的に「教団の伝統的な教義や制度や慣習を現代的な観点から点検し、現代の宗教教団として責任にたえられるような努力が必要」(注25)である。そして「『糾弾』攻撃を受けて、主体性を放棄してファッショ的暴力に屈服する」(注26)ようなことがあってはならない。また運動団体も、「あくまで宗教者の主体性を尊重すべきであって、ファッショ的な暴力的な『糾弾』攻撃をする」(注27)ようなことは許されないであろう。そして、これまで述べてきたような基礎的な問題点をふまえて、宗教と部落問題にかかわる研究活動をはじめ対話・相互批判の試みは、こんごいっそう積極的に展開されていくことがのぞまれるのである(注28)。


              注


(14)小口偉一編『宗教学』(弘文堂、一九八二年、一頁)。
(15)たとえば、H・デュモリン『仏教とキリスト教の漫遊』(春秋社、一九八一年)、パウル・テイリッヒ『キリスト教仏教徒・対話』(桜楓社、一九六七年)など参照。
(16)八木晃介「個人の救済と社会の変革」(『部落解放』一九八〇年六月号、三一〜三二頁)。
(17)前掲書『宗教と部落問題』(部落問題研究所、一〇四頁)所収藤谷論文。
(18)(19)同書(一九二〜一九三頁)所収の「全解連の態度」。
(20)こうした、区別・関係・順序といった論理的構造の解明に多大の貢献をし、新しい対話の道をきり拓いたのは滝沢克己氏である。『続仏教とキリスト教』(法蔵館、一九七九年)、『バルトとマルクス』(三一書房、一九八一年)など参照。
(21)第八回部落解放夏期講座での発言。(『部落解放』一九八一年臨時号、一七二頁)。
(22)八木晃介「問われる宗教の内在論理」の結びの話。(前掲『伝統と現代』七三、七八頁)。
(23)理論と実践、信仰と行為の区別と関係の解明に一歩をすすめたのは延原時行氏の貢献である。同氏の「『イエスとキリスト』問題へのアナロギア・アクチオニスの提言(増補版)」(BAMBINO叢書I、一九七一年)など参照。
(24)前掲『部落』一九八二年四月号、一八〜一九頁。
(25)(26)(27)前掲書『宗教と部落問題』(部落問題研究所、一〇九頁)。
(28)前掲の「全解連の態度」にみるつぎの指摘は注目してよい。「宗教界にみられる部落問題タブーをなくし、おたがいに対等・平等の立場であることを認めあって宗教と部落問題に関する自由な発言や対論を保障する対話運動を、多面的におこすことがたいせつである」(同書、一九四頁)。


   (つづく)