「KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界」(2)



KAGAWA GALAXY吉田源治郎・幸の世界」(2)
http://k100.yorozubp.com長期連載(150回)補充資料


 第1回 「又逢ふ日迄」
(故吉田なつゑの思い出)1917年8月(2)


           又 逢 ふ 日 迄
          ――故吉田なつゑの思ひ出――


      (前回の続き)


 明治44年小學校を了へて45年の春亀山町の県立女子師範學校へ入學した。師範校時代の同窓の一人は共頃を思ひでで次のやうな歌を送って呉れました。


   緑濃き寮舎の窓に照る月を愛でにし昔ぞ思ひ思はる
   如伺にせんさとくやきしき此君になどて嵐の吹きすさぶらん
   亡き君の行衛は高く天の上の御神の許に安くおはさん


 師範校在學の4年間は彼女の生涯に於て尤も日光の輝いた愉快な日々でめった。然し乍ら健康なばかりではなかったらしい。「なつゑさんは少し許り病気になっても母が心配するからとて決して家へ御知らせになりませんでした」とその頃を知れる一人は語ってくれました。同窓生の一人より、


 「私在学中から遊びの友は多く、勉めの友もいくらもございましたけれど、苦しみも楽しみも、あらゆる心中の秘密を打あけ、或時ははげまされ、あろ時はなぐさめられつして居りました。友とては更に二人の中のみにて、他にI人も心からの友はございませんでした…………終生忘れる事の出来ない御友達でございます。在學中から私はあの御立派な人格を尊敬いたして居りました。私のやうなものが今日あるのも全く御徳高きなつゑさんの御助力によりし御かげど深く戚謝いたして居ります。………………」


 同じく、


 「思ひ返せば六とせの昔、共にあの亀山の學び舎に文読む身とはなり、學年は一部に二部に異り候へ共共志す所は同じく…………明治45年の4月数多入學いたせしその中に、如何なゐ縁にか北寮の18室に互に生れて始めての寄宿舎生活、遠く父母兄弟の膝下を離れて起臥せし事なき身の學び舎に入りにし其日より、ー學動を鐘によりてなす様になり、何となく淋しみを戚じて共にあの南面の窓より首を出して故郷を偲びし事の幾度か候ひし…………」


 同じく


 「君は温雅私は偏狭、しかるに交情阻隔なく、久しくして愈々厚きを加へしは二人の性癖相似たる所ありしならん。・・・私の疑うて決し雑き所は君の言によりて之を決し、君の思ふ所は私につけて隠す所なかりき、在學中舎の改革あり・・時々・・片隅にて低語したりしに又卒業授与式の前々日一室に入り夜更くる迄色々と過去及将来の物語をなし、たとへ他家へ嫁すとも音信は絶つまじとちかひしに、これが最終の会談とはなれり……」


 同じく


 「人一倍親しかりし私は、なつゑさまのやさしく親切あふれし過去の友情の様々がとめどなく脳裏に行き通うて淋しさ悲しさに堪えられず候……7月25日に級友の一人なろ中村照子の君失せ逝き旬日ならずして叉級中最も敬愛する友を失ひし級友のなげかひも一入にて候……今更ながら共に撮りしうつしゑを眺めては君が生前のやきしき情を思ひ浮べ、あろ時は親しさの余りくだらぬいさかひ等せし事共思ひ出し、帰らぬ事と知りつつも思ひ出の糸は絶つに由なく候。友の最後の手紙等見るも苦しく候………」


 旧師よりの御手紙の一節


 「……さる4月御上京の折、稍むやつれなしたまひし御面ざしを拝し御案じ申上候處、御上京の後回復したりとの御伝言にて遥に返に御よろこび申上、6月4年生引卒上京の折は御健全なる御蝶子を拝せんものをと存じ居り侯處、御病褥中なりとの電話に接し少なからず失望いたし侯へども、さほどに重しとも存じ申さず、御卒業の後をたのしみ居候處思ひがけなき御知らせにて悲痛やる方御座なく候………数多の生徒の中にても特に目立ちて美しき御心かけにましまし、舎のために美風を御残し下されし御努力は、イエスの足跡をふみたまふ君ならでは六つかしからん感謝いたし居り候…………」


    (つづく)