『賀川豊彦と現代』紹介・批評紙誌テキスト化分(4)「毎日新聞」1988年7月14日「人」欄


賀川豊彦と現代』紹介批評紙誌(4)


毎日新聞「人」欄(1988年7月14日)


      テキスト化分





       「賀川豊彦と現代」を出版した牧師
       鳥飼 慶陽(とりがい けいよう)さん


 鳥取県の農家生まれ。39年、同志社大学院神学研究科修了。ゴムエ員五年間などを経、現在、兵庫部落問題研究所事務局長。48歳。


 明治、大正、昭和の三代にわたり、社会福祉事業、労働運動、農民運動、平和運動など多方面に大きな足跡を残した賀川豊彦。今年生誕百年のこのキリスト教社会運動家には「上から下への意識」という批判もある。


 「たしかに『貧民心理之研究』を書いた二十代後半の賀川には偏見があった。しかし、肺結核で死線をさまよいながら、貧民問題を通じてイエスの精神を発揮したいと、二十一歳で神戸葺合(当時)のスラムで活動を始めた勇気。七十一歳の冒険的生涯は、現代の私たちが忘れている大切なものを指し示していると思う」と語る。著書(B6、二百ベ兵庫部落問題研究所)執筆の動機でもある。著書(B6、二百ページ、兵庫部落問題研究所)執筆の動機でもある。


 倉吉東高生時代、友人に誘われ市内のキリスト教会へ。そこで手にした賀川伝に心を揺さぶられたのが「賀川豊彦」との“出合い”。


 大学院を出て、賀川が創設した神戸イエス団教会の伝道師に。二年後、独立して神戸長田区四番町の文化住宅に「番町出合いの家」を開設、同時に同区内のゴムエ場の雑役工になった。


 「同じ牧師の妻、トモ子もケミカルシューズエ場の工員として働きに出ました。信徒に依存せず、自分で生活の糧を得る“労働牧師”です。教会が新しくなるにはまず牧師が新しくならねばと・・・。これも賀川の影響だったかな」


 今住む一番町の市営住宅十一階には伝道所を示す標札さえない。「自分が、今、いるところ、そこが“出合いの家”なんです」


 ≪いのち、光、力に促されて喜んで生きるところに人または宗教者としての日毎のつとめがある。賀川はこの宗教の基礎をふまえ、世界・宇宙を生きる場に、社会活動に没頭した一人の先達だった≫


 鳥飼牧師の賀川豊彦観である。
                            (津田 康)




 (付記)


 この署名入りの毎日新聞「人」蘭は、当時大阪本社の編集委員をされていた津田康氏は、既に1983年に甲子園で活躍した池田高校野球部監督「蔦文也の旅ーやまびこが甲子園で響いた」の著者として広く知られていた型でした。

 わざわざ我が家にまで取材にこられて、愉快な語らいをしたあとに、この記事を書いてくださいました。津田さんとのその後の交流については、また折々に・・・・。また、前回UPしました共同通信の記事を書いていただいた記者・村井さんも、丁寧な取材をお受けしましたが、彼はその後、外国での記者生活を続けられ、新たな夢を求めて医学部で学び、現在医療の世界でご活躍のようです。