「宗教者と部落問題ー在家牧師の神戸からの報告」(第8回)(同朋教学研修会、2000年8月)


上に掲げた書物は、私の先輩で延原時行さんの新著です。今年8月に完成して、今神戸自立学校で、テキストにして学び合っています。


今回のところで、延原さんから学んだことに触れていますので、取り出して置きました。彼の著書や論文は、英語の多くの論文を含めて、ネット上で検索できますが、日本語で読める著書も多いですので、お求めになって一読してご覧になると、面白いと思います。チト難しいといわれる方もありますが、硬いものにチャレンジしてみるのも、よろしいデスヨ。



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            宗教者と部落問題(第8回)


            在家牧師の神戸からの報告


            2000年8月 同朋教学研修会


   (前回のつづき)


         「一人性」「対人性」「社会性」
 
我々宗教者の場合、先ほどの「一人性」の領域を専心集中して見極める努力を重ねています。「そこからそこへむかって」全てを見ようといたします。しかしその「そこ」、つまり「宗教の基礎」と呼んでいるその「基礎」は、単に「宗教」の基礎ではなくして、政治経済・世界・家族すべての「扇の要」ともなっている「基軸」として働いています。


この「基礎」「原点」の見極めは専ら、滝沢克己先生がその生涯をかけて明晰判明にするお仕事をしてこられ、今申し上げている「三つの極面」とその「基軸」と「切り結びの関係性」ということについては、延原時行さんが深く省察を加えてきておられるところです。


延原さんがいわれるように、その「基軸」から「一人性」「対人性」「社会性」という独自な「三つの極面」が成立しているという見方が可能になれば、逆に私たちが狭く狭く「宗教」に没頭することの大切な意味も、深く了解することができます。
 

つまり「一人性」のほかに、「対人性」(対をなす「夫と妻」「親と子」「彼女と彼」「我と汝」)という独自な極面と、「社会性」(「会社」「地域」「國」「世界」)という独自な極面が成立していて、それぞれが、独自なダナミズムをもって息づいている。それらが全体的にトータルに関係しあっている、という見方ですね。

 
「部落問題の解決」の場で生きてきて、この座標軸の定まった「トータルな見方」は、私にとってとても落ち着いたリラックスさのようなものを与えてくれたように思います。この「三つの極面」の独自な意味を受け止めることは、とても大切なことだったと思います。今回「資料」としてコピーをしていただいたはじめのところに、いま申し上げようとする点に触れています。

 
私たちは、「在家牧師」として、つねに「宗教的な極面」での研鑽は外せませんでした。基本はまず「わたし自身」が日々、よろこんで生きることのできる可能根拠に目覚めさせれて、日々無条件の祝福をうけて、感謝して喜んで生きること、その経験を深くすること、 何よりも何よりも、日々のこのつとめが大事なことでした。 
 

同時に、私たちは「対人性」の中で日々生きています。その中心は「家庭」です。「結婚家庭」の中で生きています。家庭という独自な場の大事さを学んできました。


子どもたちは、成長して独立していきますが、その育ってく大事な場所のひとつが「家庭」であることはいうまでもありません。「対人性」(家族)の中に、「一人性」が大切にされている。妻として・夫として、関係の中で、自立した個人として、安心していることができる場所が「家庭」ですね。二人の娘はそれぞれに巣立ち、現在は60歳の私たち夫婦だけですが。
 
 
そして、私たちが日々生きて居る場所は「地域の中」です。私たちの場合、部落問題の解決という直接的な取り組みは、ひとつはこの「地域の中」でのことであり、もうひとつは、日々の「仕事場」でのことです。


「仕事場」は、はじめはゴム工員として、次に地域の公民館での社会教育の嘱託として、そして長い間神戸の「部落問題研究所」の裏方として、そして現在はフリーターとしてあれこれと・・。
 

「地域の中」では、はじめのころは「子供会」や「自治会」づくり、仕事づくりで自動車の免許をとろうと「車友会」に加わったり、生活の自立運動として「厚生資金利用者組合」づくりや、識字運動。また住環境整備の推進のための「住宅促進協議会」づくり・・
 

一段落してきますと、住民の自立した運動として、教育文化協同組合や労働者協同組合、住宅まちづくり研究会など、「同和行政」とか「部落」という枠組みではない、新たな地域の取り組みが進みます。この領域も「社会性・共同性」として「一人性」と「対人性」とは異なった独自な領域です。


「確かな基礎・基軸」に裏打ちされて成り立ってくる大切な領域があって、この「領域の違い」があるということを念頭において、その「基軸」から成立してくるダイナミズムに即応して、日々の研鑽を重ねていく、というような・・・。単なる「個人主義」「マイホーム主義」「国家主義」に落ち込まないで、どれも基礎から息づかせていける開かれた智慧のようなものですね。


そしてこの「三つの極面」が、これが混同されたり密輸入しあってねじれてくるときに、難しい事態が生まれて、心身がギクシャクしてくるというような、変なことが生じてくるように思います。


              「同一性」


もう一つ、延原さんから学びましたことを申しますと、「同一性には三つの同一性がある」というのですね。学問というのは物事の「区別」と「関係」と「順序」を正確にすることであると申しますが、彼は「同一性」には三つがあるといいます。

まず「事実的同一性」。これがベースにあって、そこからお互いが関係を持ち合って生まれる場として「作用的同一性」がある。そしてさらに「意味的同一性」があるというのです。


毎日一緒に働いている場所というのは「事実的同一性」、そして仕事を終えて友人と遊んだり地域活動にでる。それは「作用的同一性」といえるもので、例えばお寺では、熱心に信仰に関する学びをして宗教的な意味空間をつくります。そういうのは「意味的同一性」の場所といえるというのです。


「同一性」の意味合いに、少なくともそういう違いがあることをわきまえると、「同一性」にも、多面的・重層的なものがあるのだ、ということを念頭におけば、それこそお寺で多お寺らしく、仕事場では仕事場らしく、その関わり方もわきまえて、リラックスできる、そういうことはありますね。


私の場合、延原さんという身近な友人が、そういうことを文章などにして表現してくれていて、ずいぶんと助けられてきたように思いますね。こういうのは、いきる知恵なのでしょうね。教えてもらうと、そうなんだと気づくことが、たくさんありますね。


    (つづく)