「吉田源治郎牧師から見えてくるラクーア伝道」(資料5)



  「吉田源治郎牧師から見えてくるラクーア伝道」資料5


 吉田源治郎は四貫島セツルメントの傍ら杉山元治郎と賀川豊彦とともに「日本農村伝道団」をつくり、「日本農民福音学校」の教務主任としても参画します。ここでは東北学院の刊行する『大正デモクラシー東北学院杉山元治郎と鈴木美男』より岩本由輝氏の執筆部分の一部を資料として取り出して置きます。


 岩本氏は「賀川豊彦献身100年」の折りには「賀川豊彦杉山元治郎」と題して賀川豊彦講座」を担当されました。)



           農民福音学校と杉山元治郎


 杉山は一九二六(大正十五)年十二月七日に労働農民党中央執行委員長をやめ、一九二七(昭和二)年一月十四目に日本農民組合組合長を辞職すると、二月一日付で兵庫県武庫郡瓦木村高木東(現西宮市高木東町)への移転通知を出しているが、そのなかでやってみたいこととして、「福音の事業」をあげている。それは、賀川が杉山を説いて一月十九日に結成した日本農村伝道団の事業にかかわることであった。そして、三月一日、日本農村伝道団は、


 我々は日本農村の宗教的改造と建設をなさんがために、左の事業を行います。
 一、農民福音学校の開設(農閑期に開校)
 二、文書伝道(伝道用パンフレット雑誌発行)
 三、講師派遣(神学校、都市教育その他への要求に応じて)
 四、農村伝道(直接伝道後援)
 五、農村セツルメント事業の普及
 右の目的を実現せんがため、日本農村伝道団の趣旨に共鳴する人々の協力をもとめます。
 本団の目的に賛成する人々は、
  一、維持会員(年額五円以上納付するもの)
  二、普通会員(年額一円を納付するもの)
 となることが出来ます。会員に対しては、時々会報を配布し連絡をはかります。
  入会希望の方は左記宛御申込み下さい。
   兵庫県武庫郡瓦木村高本東二三八
      杉山元治郎方
        日本農村伝道団
  昭和二年三月一日


 という趣意書を発表する。日本農村伝道団の理事には、杉山元治郎、賀川豊彦、吉田悦蔵、村島帰之、小島換三、矢部喜好、吉田源治郎の五人であった。そして、実はこの趣意書の日付以前の二月十一日に趣意書第一項にある農民福音学校を開設している。杉山には小高教会牧師時代に小高高等農民学校を経営した経験があったことはさきにみたとおりである。賀川が杉山の名前を知ったのはこの小高高等農民学校についての沖野岩三郎による紹介を通じてであった。ただ、今回、名称を高等農民学校ではなく、農民福音学校としたのは、「神を愛し、隣人を愛し、人を愛する三愛王義がイエスの福音の精神であるから、これを真向正面に押し出すこと」と、対象を「農民に重点をおくというところ」にあったと、杉山はいっている。農民福音学校の略則には、


 農民福音学校は名は学校であるが寺子屋である。デンマークのブルンドヴィッヒの精神に従うてやるもので、人格と人格の接触する教育の道場である。故に、すべては自治的で本人の修養に待つことも多いのである。教室もない。器具もない。普通の住宅で座りながら教えられるのである。所謂学校の名に捉えられる人は、この学校に入る資格はない。修養の志に燃えて農村改造に突進せんとする戦士の学ぶところである。


とある。


 第一回は、一九二七(昭和二)年二月十一日から一か月間で、定員はI〇名、学費は不要、食費は半額の七円五〇銭を負担するというy」とて、教師と生徒との人格と人格の接  触を重要視し、通学できる距離の者でも全員寄宿して教室ばかりでなく、食堂でも寝室でも四六時中座臥一切を教育の場としている。教師もすべて奉仕で、これによって報酬を求める者はなかった。

  
 教師は校長が杉山、講師は賀川、村島、吉田の三人で、林歌子、本村毅、牧野虎次、山本一清、三宅正一らが科外講師として協力してくれた。授業科目は、キリスト教、社会問題、農業、土壌学、肥料学、気象学であったが、杉山はここでも大阪府立農学校出身者として有する豆蓄を順行、三才』こ・三言、・・手声しヽ万〜。ブフ、しまう日賀川と杉山は長屋で隣り合わせで住んでいたが、教場は賀川の家の裏にあった八畳はどの小屋を使い、宿舎には杉山のいた長屋をあて、杉山はその向いに小さな家を建て、そこに移っている。


 農民福音学校はやがて日本農民福音学校を称するようになるが、杉山が一九 二七(昭和二)年三月一日、全日本農民組合組合長になってからも、一九二九(昭和四)年五月二十七日に全国農民組合中央委員長になってからも、さらに一丸三〇(昭和五)年三月一日に大阪府中河内郡布施町(現東大阪市)東足代に杉山歯科診療所を開設してからも地道に続けられた。それどころか、杉山の唱導によって全国各地に三日間、一週間という短期の農民福音学校が開催されている。杉山はそうしたところにも積極的に出かけ、農村社会学、農村問題、社会思想史、農学通論、農村経営、植物病理、土壌学、肥料学、気象学を講じている。そして、杉山は、一九三二(昭和七)年一月には、そうした経験をふまえて、『農村教化の研究』(日曜世界社)なる一著を現わしている。なお、短期農民福音学校の数について、『基督教年鑑』(日本基督教聯盟)によれば。


  一九三四(昭和九)年  二五校
  一九三五(昭和十)年  三七校
  一九三六(昭和十一)年 一七校
一九三七(昭和十二)年 一六校
  一九三九(昭和十四)年 二六校
  一九四〇(昭和十五)年 一一校


となっている。


 こうした農民福音学校運動が根強く展開できた背景には、一九二一(大正十)年十月五目に賀川らによって設立されたイエスの友会があったことを忘れることができない。


 ただ、太平洋戦争が始まると、日本農民福音学校は閉鎖され、また、各地の農民福音学校も開けなくなっていた。


 しかし、敗戦後、日本農民福音学校は再開されることはなかったが各地の農民福音学校は一時大変盛んになる。


 一九四六(昭和二十一)年  一五か所
 一九四七(昭和二十二)年  七五か所
 一九四八(昭和二十三)年 一三一か所


 という数字が示すとおりであるが、折から農地改革の進行して状況であった。杉山は戦時中、大政翼賛会推薦で衆議院議員になっていたことから公職追放令に触れるとして、最初の一丸四六(昭和二十こ年四月の総選挙に立候補することはできず、一丸四八(昭和二十三)年五月十日に公職追放該当者に指定されたが、杉山は日本基督教団の農村伝道特別委員会の委員の一人として各地で開かれる講師として積極的に出張している。農学校でみにつけたオーソドックスな農業理論、農業技術を知っているだけでなく、みすがらの実践のうらづけを持つ杉山の講義は、宗教的な講話とともに好評であったが、杉山は追放中にもかかわらず全国的に政治運動をやっているという投書をする者があったらしく、検事の取り調べを受けたことが三度ほどあった。しかし、杉山はひるまず農村伝道特別委員会が作ったスケジュールにしたがって、ゴム靴ばきにリュックサックというスタイルで冬期の一〜三月と夏期の八〜九月を中心に講師として北海道・東北から四国・九州までを巡回した。気がついたら還暦を過ぎていたと杉山はいっている。
 

 追放解除後、一九五一(昭和二十五)年十月一目の総選挙で杉山は国会に返り咲いたが、その結果、追放中のように各地を講師として巡回することが難しくなってきた。農民福音学校はなお農村伝道特別委員会の手で続けられていたが、次第に精彩を欠くようになる。農民による需要が減退したともいえるが、杉山のように身についた農業理論や農業技術を話せる講師がなかなかえられず、単なるキリスト教布教の場としてしか受けとめられなくなってしまい、農民の足は遠のいてしまった。(以下省略)