「滝沢克己と笠原初二ー笠原遺稿『なぜ親鸞なのか』を読む」(第4回)(1993年)


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  滝沢克己と笠原初二


     笠原遺稿集『なぜ親鸞なのか』を読む


                第4回



           4 「もう一息というところまで」


 さて、笠原は翌一九七七年同学院を卒業し、さらに同学院別科に進学した。そして、院側の懇切な勧めもあって、大谷宗務所の部落問題関係の部門(真宗大谷派同和推進本部)の嘱託として勤務することになる。笠原はこの仕事に就いてから、それまでの研究成果を「『歎異抄』における『業』及び『宿業』」(『真宗』昭和五三年六月〜八月、真宗大谷派宗務所刊)並びに「親鸞における『業』の思想試論(同和研究紀要『身同』一〜二号、昭和五四年五月、一二月、真宗大谷派宗務所刊。これは現在(一九九三年)、同和推進本部紀要として一一号まで刊行されている)でそれぞれ発表し、滝沢のもとにも送り届けた。


 これらの論文で彼は、詳しい親鸞研究をとおして、仏教において最も基本ともなるべき「業」に関する積極的な理解を「試論」のかたちで展開した。ここではこれには立ち入れないが、「業」について彼は、少なくとも親鸞においては「親の因果が子に報い」というような社会通念としての因果応報的「業」理解や、「過去世による」とか「親や祖先による」という観念はなく、あくまでも人間の個における「弥陀」「本願」というものに関わるものとしての精神的現実(存在論的出来事)を指すことを強調するのである(一四三、一八一頁)。その点、「業」そのものを否定すべきものとする真継伸彦などの或る意味で通俗の見方(一二五、一五〇頁)に対して、根本から批判する立場を打ち出しているのである。


 そして笠原はつづけて、のちの真宗教団においては、封建教学としての「業」つまり「部落に生れたのは宿業だ」などと説いて諦めと屈従を強いてきたのであり、自らの属する本願寺教団や教学は部落差別と無縁であるとは決して言えないことを強調しつつ、つぎのように言うのである。


 「そして筆者の『業』理解から部落差別に関していうならば、『業』の責任を問われるべきは部落にあるのではなく、非部落こそがその『業』の責任を負わねばならないのである。 従って、我々は部落差別に関する歴史的総括をふまえて、そこから解放運動に学び、できうるところから部落解放に協力してゆかねばならない。教団に属する一員として筆者自身もその総括の作業をすすめ、その責任を負いたいと思う(一四六頁)。


 このように、ここに来てもなお彼の視座は、「部落」「非部落」を先立て、それ自体矛盾と混迷のなかにある「解放運動」への冷静な批判的な見方を獲得できないまま、教団という彼の仕事場でも、かつてと同じか、或はもっと見分けにくいかたちで関わろうとしていく。


 たとえば、生前自分の責任で公表した最後の作品「部落問題とともに」(前掲『親鸞は生きている』所収)によれば、彼はこのとき「差別者自身の解放運動」という新たな方向を提示し始めるのである(三四頁)。この方向は、彼にとって「親鸞という人の生き様と思想」から学んだ、ただ一つの目標となっていくのである。彼はその決意をつぎのように語っている。


 「非部落である差別者自身が自らの差別性、差別意識をまともにみすえて、差別者自身の差別性の解放を課題とする運動を真宗大谷派東本願寺)という現実の教団のなかに身を置いて、ここから一歩一歩前進してゆきたいと考えています。(中略)『差別者がいるから部落差別があるのだ』というかぎり、差別する側の問題を明らかにし、差別者自身の解放ということを、今後の運動として切り拓いてゆかねばならないと思います」(三四頁)。


 丁度このとき真宗大谷派の関係で始められていた「同炎の会」といわれる新しい「運動」があったが、趣旨は笠原のそれと同じである。むしろこの運動の核に彼があったのかもしれない。


 しかし、ここで言われる「自己告発を出発点」とした「新しい解放運動」とは実際どういうものであろうか。わたしは以前、この「同炎の会」のことを知り、それを持ち上げる「識者」もあって、この会のもつ危うさに関して詳しく立ち入って論じたことがあるのでここでは触れないが、これはこんにちの宗教教団が共通して抱えている問題性でもある(『部落解放の基調−宗教と部落問題』創言社刊、一九八五年)。


 このようにして彼は、つぎのような「決意」をそこで言い表わすのである。「私は真宗大谷派に属する一人として、まず自らの教団の差別体質を検討することからはじめなければならないと思います。そして、その上であらためて、親鸞という人の実際の生き様とその思想は何であったかを明らかにせねばならないと考えます。」(三五頁)と。


 実際に彼は、自分の職務としてではあるが、真宗大谷派仏教青年会東北連区研修会(昭和五五年三月)で「部落差別と真宗」と題する講演を行ない、真宗教団の「差別体質」の具体例をひとつひとつ挙げて説き明かし、さらに教学上の問題性を詳細に展開していくのである(三九頁以下)。その講演は、教団内部の生々しい話や多くの「差別事象」を取り上げた、いわば「告発型」の「研修」である。


 「昨日テープで聞いた難波別院事件に関する解放同盟の糾弾もそうですけれども」(四七頁)とあるところからみると、「糾弾」の場面をテープで学ぶ「研修」が行なわれているようである。噂には聞いていたが、こうした「研修」も事実であったようである。この問題性は、今日の真宗教団の問題性であって、笠原だけのものではない。彼も率先して乗ってしまっているのである。


 ところで他方、笠原が滝沢から聞いて「アッと思った」ということば、つまり「“現実”はそれだけであって、しかもけっしてそれだけでない」という滝沢のことばは、どこまで明らかになったのであろうか。彼はそれを、『歎異抄』の「よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」という「念仏のみ」の「のみ」に、「難中の難」といわれている何かがある(三〇頁)とした上で、あたかもこれまでの自分を振り返るかのように、つぎのように言うのである。


 「現代は“れわれの現実”というところでのみ生きている。ここに危機があり、そのような生き方、考え方こそがニヒリズムそのものであり、当然そのような生き方だけでは人間関係は崩壊するようになるということです。」(三二頁)


 「このようにして“れわれの現実”と“宗教的現実”とが逆接的に一致する一点に、図式的絵画的にいえばわれわれ穢土と如来の浄土とが一点で接する、つまり“われわれの現実”だけではないものがわれわれの身に起こるその一点に“南無阿弥陀仏”があるということです。(中略)そのような意味で『念仏のみぞまこと』ということを、われわれはわれわれの生活を生き生きと生き抜くために求めてゆかざるをえないわけです。“われわれの現実”だけでは生きづまるからです。」(三三〜三四頁)


 ここには、宗教的論理は貫かれている。けれども、彼の息づかいはどこか「要請された念仏」といった感じがどうしても残ってしまう。そして、彼はここでも正直に「“宗教的現実”がわれわれの身に現成するとき、『差別、被差別』の関係を圧倒することがおこ」り「加害、被害の“おびえ”を圧倒する“何か”が理解され」「自由に伸び伸びと」「差別、被差別の“業撃”にしばられない“余裕”が実際の生活のなかに生まれるということではないでしょうか。」(三五〜三六頁)という切実な思いを吐露している。


 つづけて彼は「私自身、親鸞に魅せられることはあっても、まだ『信心』がなくて確固とした断言をすることができませんが、しかし親鸞の文章の迫力からして、そのように考えずにはいられないのです」と告白する。


 ここでは確かに、滝沢がハッキリと記すとおり「かれは、深く本願の弥陀を信じていた」。「ただそれが、かれのそれを信ずると否とにかかわらず、それじたいで在りかつ活きている真理だということ、それこそは人生・社会のほんとうの始めにして終りだということが、はっきりとかれの心眼に見えてくるには、まだ若干の距離があった。」(七〜八頁)。この「若干の距離」のために彼は、ここまで苦しみつづけたのである。


 しかし「ほんとうに、もう一息というところまで来ていたのだ」。「何とも口おしく」思いつつ、滝沢は彼の早逝を悼んで止まないのである。


 笠原は亡くなる前年(一九七九年)の暮れに福岡名島の滝沢宅を訪ね、半切に大きく『南無阿弥陀仏』と揮毫を乞うたという。滝沢はそれを新年の書き初めにして、元日の午後、彼に手渡したのであった(八頁)。そしてこれが最期の別れとなったのである。


 生前、滝沢は自分の葬儀は「笠原君のところで頼んで、骨は庭に撒いて貰うのがいいな」と言われたというひとつのエピソードも残されている。笠原初二への滝沢克己の思いが伝わってくる語りぐさである(『阿吽』二号、一九九二年一二月、六〇頁)。


  追  記


 1 笠原について記したものは、現在わたしが知るかぎり滝沢のほかにただひとり、辻厚治のみである。辻は、恩師の滝沢と友人であった笠原亡きあと筆を起こした美しい未完の作品「吾がうちなるユダ」(『状況への視座』所収、創言社、一九九〇年)で、笠原が「“ユダ”とは自分の事ではないか」と記していたという点に触れている。そこにはそれ以上の言及はないが、何かこの作品は、笠原と滝沢に捧げる辻自身の澄んだ追悼のことばのように見受けられる。


 2 本稿を書き終えたあと、この遺稿集の滝沢の「あとがき」のなかで、法蔵館編集部の美谷克美氏への感謝のことばが記されていたことを思い出し、問い合わせたとろ、氏はこの編集を終えたあと、富山の方で新しい生活をはじめておられ、電話であったが親切に、およそつぎのようないきさつを教えていただいた。


 この出版企画は、笠原の没後二年程経てのち、美谷氏(法蔵館)から出され、「序」と「あとがき」を滝沢に依頼して「滝沢克己編」とすることを願い出たところ、すぐに快諾された。しかし、その後さらに二年ばかり出版調整に時間を要し、滝沢の亡くなるひとつきあまり前の一九八四年五月二八日付けの「あとがき」を入れて刊行にこぎつけることができた。氏はまた出版調整の間、笠原の作品を探索したが、わずかにひとつ『中外日報』に掲載分として寄せられたはずのものがあったことをつきとめたが、どうしてかそれも紛失しており、結局一度公刊されたもので編むことにした。なお、本書の初版はなくなり、現在では残念ながら絶版になっている。


 3 笠原は最後まで「差別・被差別」の壁に苦しんだのであるが、吉本隆明中上健次を悼んで記した短い文章のなかで、「かれの生前には照れくさくて言えなかったこと」として、つぎのようなことを書いている。


 「島崎藤村が『破戒』で瀬川丑松をかりて、口ごもり、ためらい、おおげさに決心して告白する場面としてしか描けなかった被差別部落出身の問題を、ごく自然な、差別も被差別もコンプレックスにはなりえない課題として解体してしまった……中上健次の文学が独力でためらいも力みもなくやりとげてしまったことで、その思想的な力量はくらべるものがない。なぜかといえば、いまでもわたしの思想的な常識では被差別部落の問題は、外部からするひいきのひきたおし的な同情か、内部からするいきすぎた反発によって、差別の壁を高くすることもあったからだ。中上健次の文学ははじめて、ペルリンの壁のようなこの差別・被差別の壁を解体して、地域の自然の景観の問題にかえした……」(『神戸新聞』 一九九二年八月一四日付け)


 中上健次の文学には全く不安内であるが、もともと「差別・被差別」の「壁」など無用なのである。


  補  記

 
 本稿を書き上げて後、偶然に「笠原初二の思想と生涯」と題する日野賢隆氏の論文を『佐賀県部落解放研究所紀要−部落史研究−』第六号(一九八九年三月刊)で拝見した。特にそこでは、笠原が深く関係を持った師として、滝沢のほかにふたり、筑紫女学院短大松尾博仁教授と真宗大谷派熊本教区恩教寺住職佐々木大乗師にふれて、彼にかかわる回顧談や書簡などを紹介している。そこでわずかながら彼の人となりを知ることができる。その一節には笠原家の「仏壇には滝沢師の筆になる『南無阿弥陀仏』の六字名号が安置してあった。母親は『あの子が滝沢先生に無理にお願いしたのだそうです』と、言葉少なに語った。」とあった。
                        (一九九三年六月)