賀川豊彦の畏友・村島帰之(51)−村島「賣淫論」(十)
この「賣淫論」の連載今回で10回目で、一応今回が完結です。
「雲の柱」昭和5年11月号(第9巻第11号)
賣淫論(十)
村島帰之
東京の賣淫
賣淫は文明の腫物である。そして、その腫物を最も都合善く化膿せしむるものは、あらゆる「悪」を一箇所に集めたと思はれるやうな都會である。日本一の大都會である東京は、その腫物においても亦日本一である。まづその腫物の量的考察から始めよう。
東京は何人の賣淫婦を持ってゐたか、それを知るためには、まづ賣淫婦を主とする遊興機関の現勢を知るの必要がある。大正十三年現在の遊興機関の数を見ると次の如くである。
市部 郡部 計
貸座敷 619 127 746
引手茶屋 63 4 67
待合茶屋 1997 254 2251
芸妓屋 2751 691 3442
銘酒屋 − − −
新聞縦覧所 6 − 6
これを既往十年間に比較して見ると、銘酒屋、新聞縦覧所を除いては、凡べて増加の趨勢を辿ってゐる。貸座敷の如きは、大正十二年の震災において甚しき痛手を受けたのにも拘らず、翌年に殆ど奮の如くに復活し、これを十年前に比すれば約二百五十戸、即ち五割近い増加である。叉、待合、芸妓屋の如きも略々同様で、十年前に比すれば待合は五割四分の増加、芸妓屋に至っては六割五分の増加である。
十年前に比し減少を示してゐるのは、銘酒屋と新聞縦覧所である。銘酒店は、大正四年には市内に千四戸、郡部五十戸、計千五百四戸を存してゐたが、大正五年の私娼検挙の為め、翌六年には市内六百五十戸(約四割減)郡部約(三割減)計六百九十四戸となり、大正七年に至っては市内に銘酒屋の跡を絶ち、郡部も大正十年以後全く影を歿したといはれる。新聞縦覧所も、大正四年百八十三戸、五年百七十三戸、六年百二十一戸と漸減の歩調を辿り、七年に至っては更に激減して四十八戸、八、九、十、十一年には三十八戸、十二年には九戸、十三年には六戸といふ減じ方である。
即ち、純粋の私娼の営業場所は「公娼保護私娼撲滅」を方針とせる官憲によって、殆ど閉鎖同様の圧迫を受けてゐるに反し、一方、公娼を抱擁する貸座敷および表面賣淫を業とせず、納税して独立せる営業をなす處の芸妓を本位とする芸妓屋、待合は、直接間接の保護によっていよいよ盛大を来しつつある現状である。
然し、此の数量的観察によって東京には公娼が増加し、私娼が減少したと速断する者あらば、それは大なる誤謬である。銘酒屋新聞縦覧所は、成るほど、その姿を消したであらうが、私娼は他の形に依って他の場所に現はれて来てゐるからである。後に記す所の現在、玉の井、亀戸の私娼窟を構成しつつあるものがそれである。
次には公、私娼自身の数量的考察を試み、更らに現在の私娼の生活状態に及ばねばならない。まづ独立せる営業者として届出のある芸娼妓について見ると、左の如くである。
市部 郡部 計
芸妓 7990 2266 10256
娼妓 4191 953 5144
計 12181 3219 15400
(大正十五年二月現在)
即ち一萬の芸妓と、五千の娼妓が東京府在住男子のために存在する勘定である。叉東京市内のみに見ても八千の芸妓と、四千の娼妓、計一萬二千の女が存在するのであって、之を東京市内現在十八歳以上六十歳未満の男子六十二萬人(大正九年國勢調査)に比べると、之等青壮年男子五十二人に對し一人宛の芸娼妓が存在する勘定である。
芸娼妓の年齢は二十歳以下の者が多く、全数の二割九分は十八歳以下である。大正六年以降十三年迄八箇年の平均を見ると、
平均実数 比率
一二歳〜一八歳 2546 29%
一八歳〜二十歳 1764 19%
二十歳〜二十五歳 2212 25%
二十五歳〜三十歳 1139 13%
三十歳〜三十五歳 608 7%
三十五歳〜四十歳 376 4%
四十歳〜 378 4%
計 8933 100%
即ち全員の四割八分は二十歳未満なのである。
これに反し、娼妓は二十歳以上二十五歳未満の者が多い。これは蓋し、娼妓は芸妓と異り、法律を以て十八歳以下の女子がこれに従事する事を許されないためである。なほ十八歳以上は全然無制限であるが稼業柄、四十歳を越へたものは頗る稀れである。
今、大正四年以降十三年に至る十箇年の平均を見ると左の如くである。
平均実敷 比率
十八歳〜二十歳 1121 21%
二十歳〜二五歳 2708 51%
二五歳〜三十歳 1161 21%
三十歳〜三五歳 299 5%
三五歳〜 100 2%
計 5389 100%
即ち全員の八割までは二十歳以上のもので、特に二十歳から二十五歳までの所謂年の盛りの女が五割以上を占めてゐるのである。
出生地は娼妓は地元の東京が最も多く、これに次では山形、新潟、茨城、群馬の順序である。
稼高は、芸妓大正九年より十三年迄五箇年、平均一日一人貳圓拾六銭である。これで高價な衣裳を作り、三度の食事を摂り、借金の元利を償還しようといふのだ。それは日傭稼人が、富豪の生活をしようといふにも均しい。若しそれ、その間の辻棲を合はせうと思へば、除分の収入を得なければならぬ。芸妓の身として余分の収人を得ようとすれば、それは唯だ賣るべからざるものを賣るより外に道がないのだ。後に記す如く、芸妓の密賣淫の廉を以て検挙せらるるものの多いのも、全くそのためである。
然らば、私娼は如何なる状態にあるであらうか。まづ大正十四年中に警視廳に挙げられた私娼の数量を見よう。
同名 密賣淫 媒合容止
麹 町 35 9
神 田 20 4
日本橋 11 7
京 橋 11 6
芝 12 8
麻 布 2 1
赤 坂 2 −
四 谷 13 2
牛 込 14 4
小石川 18 6
本 郷 21 9
下 谷 34 15
浅 草 122 17
本 所 69 11
深 川 9 1
計 393 100
郡部計 1895 1272
合 計 2288 1372
即ち市内にあっては浅草が最も多く、本所之に次ぎ以下麹町、下谷の順序である。
浅草は、従来殆ど私娼窟の代名詞のごとく言はれて来た。実際、十二階下から千束町へかけての一帯に、一時は千七百名の銘酒屋や新聞縦覧所の私娼が、夕さり来れば美しく化粧して「萬事お手軽」に、餓ゑたる男の要求を満たしてやってゐたのである。それが大正五年の私娼検挙以来、その姿を消してゐたが、大王七年に至って造花屋に姿を変へて再現し、店頭に造花を飾り、奥では解語の花を賣った。然しその後も官憲の取締依然巌重を極めるため、昔日の如き猛烈な状態はなかった矢先、震災に會し、今は蜜柑、煎餅、菓子を 店先に並べ、わづかに命脈を保ってゐるに過ぎない。上掲の数に浅草122とあるのは、これ等の女を指すのであらう。然し、衰へたりと雖も浅草は尚東京市内にあっては第一の私娼区たるの名誉を維持してゐるのである。
浅草に次で多いのは、本所下谷両区であるが、これは日傭労働者相手の「辻君」である。本所深川下谷の木賃街、労働者街の夜陰に、二十銭、の端金で春を鬻ぐドン底の賣淫である。
なほこの立賣淫の中には、丘廻りと称し、一定期間、特定せる一人の独身者の家に住込むものもあるといふ。これは賣淫制度より一歩、婚姻制度に踏込んだもので、一種の契約結婚ともいへるかも知れない。契約の要件である金銭の授受が行はれなくなれば、その婚姻は消滅し去る訳である。
然し、かうした賣淫的婚姻がドン底社会のみあってブルジョア社会になしと断言し得ようか。金を結婚の唯一の目安とせざる現代のレディーが果して、何人あるであらうか。
丘廻り賣淫と全く反對を行く者は、本郷その他の學生街に出没する「巡廻賣淫」である。之は一人の賣淫婦が幾人かの學生を相手として、定期に巡廻して行く制度であって、平均一人の女が十人位の學生を客としてゐるといふ。この種の女の収入は比較的多く、一ヶ月に貳百圓に達し、衣裳、装身具の貰ひも相当あって、下宿に對する聞届けをしてもなほ相当残るといはれてゐる。
かくの如く東京市内における私娼の分布は浅草の魔窟を筆頭に、江東の労働者を相手とする最下級の辻塵賣を次位とし、學生を客とする巡廻賣淫が三位を占めてゐるのだが、なほ右の外、牛込・小石川の如き山手、日本橋・京橋の如き下町にも若干宛の賣淫婦を発見するのは、所謂「高等淫賣」に属するものであらう。彼女等は、女事務員、デパートの賣子、タイピスト、電話交換手等で令嬢風を装ひ、密かに春を賣るのである。
次に、郡部の私娼分布は如何であるだらうか。今、地理的分布を最も明かにするために、所轄各警察署別にその検挙数を左に記さう。
区名 密淫売 媒合容止
品 川 1 1
大 崎 1 −
大 森 3 1
蒲 田 5 3
世田ヶ谷 12 2
目 黒 1 −
淀 橋 12 −
千駄ヶ谷 − −
代々幡 2 −
戸 塚 2 2
中 野 3 3
渋 谷 17 7
巣 鴨 11 3
高 田 5 −
王 寺 8 4
尾 久 28 11
瀧の川 17 4
板 橋 4 3
南千住 4 4
日暮里 9 2
千 住 1 1
寺 島 436 304
亀 有 7 4
亀 戸 1287 903
小松川 9 7
八王子 3 2
町 田 − −
府 中 3 −
田 無 1 1
青 梅 2 −
五日市 1 −
計 1895 1272
市部計 393 100
合 計 2288 1372
即ち郡部に於ける検挙数は千九百の多きに達し、市部に比し約五倍の多数である。これ蓋し、亀戸及び寺島(玉の井)の大私娼窟を控ふるためである。前記浅草において圧迫を受け、追はれた私娼の多くは亀戸と玉の井の二箇所に漂着し、茲に新なる一大私娼窟を形成したのであった。
亀戸の私娼窟は、柳島館の周囲から、長館附近、亀戸天神裏一帯地域で、半間幅位の狭い路次の両脇に、四百五軒のしもたやが並び、障子の一コマにガラスをはめた彼方から一人宛の女が顔を見せてゐるのである。そして此の一帯に在る賣淫敷は警視廳の調べでは約七百名と号する。
玉井は京成電車墨田停留所の北方で玉の井新道大正道路の一帯に、三百五十八軒の置家があって、そこに五百七十七人の賣淫婦がゐるといふ。
亀戸、玉の井の両魔窟について、東京市統計課報告の記するところを左に摘記しよう。
「玉の井及亀戸には飼屋(私娼宿)の組合がある。亀戸遊園地組合玉の井同業組合、新眺會等がそれである。而して組合の規約として、一軒に二人以上の私娼を置かぬといふのが原則である。私娼になるには、公娼の如く巌しき手績もなく、叉周旋屋の手を介して来る者も少い。多くはモグリの周旋屋(無免許営業)叉は仲間の知人の手を経て殆ど誘拐同様で伴れて来るのである。周旋として問屋から貳百圓乃至參百圓が支払はれるが、之が身代金であって女の借金となるのである。尚此の外に別に「通ひ」といって人妻若くは情婦にして無頼漢なる夫若くは情夫の強制により通勤して賣淫をなすものもある。飼屋と私娼との王代分配方法は、住込で六分四分が普通、七分三分の處もある。通ひは住込同様の分配をなす向と、場代を支払ふて稼高全部を取得する向と二つある。一日の接客人員は五人乃至六人で、月末、月初は客が多く、一夜に十名も客をとる事があるといふ。遊興費はチョンの間で壹圓乃至壹圓五拾銭、泊込で拾圓(十ー、十二時以後の泊込の場合は五圓乃至七圓)近来の不景では泊客が少く參圓でも泊めるといふ事である。女一人の稼高は一箇月貳百圓乃至貳百五拾圓だといふが、搾取者が周囲に多いために多くは残らない」
然らばこれ等の賣淫の職業は如何。累年の変化を見る便宜上、三年置きに記して見る。
大正4年 7年 10年 13年
待合雇女 32 7 4 −
料理屋雇女 30 10 29 14
銘酒屋雇女 202 21 1 5
飲食店雇女 207 77 103 159
宿屋雇女 5 2 2 17
新聞縦覧所女 30 − − −
造花屋雇女 − 48 − −
看 護 婦 1 − − −
遊技場雇女 − − − −
やとな 1 − − −
遊芸師匠 6 − − −
芸妓 12 36 8 32
女工 − 3 − −
賃仕事の女 10 5 7 8
芸妓屋雇人 − 1 − 1
活動女給 − 1 − −
紹 介 業 1 ― 1 − 無 職 387 281 1217 1755
そ の 他 10 35 3 9
計 935 527 1375 2000
即ち十年前にあっては、飲食店、銘酒屋の女が約半数を占めてゐたのであるが、漸次減じ、現在にあっては八割までは無職なのである。蓋し、従前の浅草の銘酒屋、飲食店の衣鉢を嗣いだ玉の井、亀戸の私娼窟が、その表面の看板を継承せず全く無看板、無職を以て営業するに至った結果に外ならない。
職業的賣淫をその大部分とする無職に次ぐ者は飲食店の雇女で、その次は芸妓である。女工は一人もない。これは関西に於ける賣淫統計とその趣きを異にするところで、ロールカラーの相違に外ならない。その他宿屋の女中、活動女給等いづれも皆プロレタリアの娘である。彼女達はすき好んで、この社會に来たのではなく、一人々々皆「ねばならなかった」といふ事情を持った悲劇のヒロインならぬはない。悲劇を生んだ親は社會であった。
最後にこれ等の賣淫の病毒について一言せんに、大正四年より十三年に至る十箇年間受診娼妓延人員二百二十四萬人中有毒者八萬二千人、即ち受診娼妓百人中三人六分四厘の有毒者を見たのである。之に對し私娼は如何といふに一萬人中二千人、即ち百人中二十一人といふ多数の有毒者を見てゐるのである。然し、右の統計を見て今更らの如く賣淫の病毒を恐しがるのは愚である。何故なら賣淫そのものが既に社會の病毒だからであゐ。病毒は化膿しきってゐる。今は唯だ切開手術を待ってゐる許りである。